子供の視線
子供の視線
「最近、この家に誰かいる気がするの」
夜、台所で皿を洗いながら、沙織はそう呟いた。夫の雅也はソファに座ってテレビを見ていたが、妻の声に軽く反応した。
「またか? こないだも言ってただろ、足音が聞こえたって」
「でも本当なのよ。夜になると、廊下の突き当たりから子供の笑い声が聞こえるの」
「この家には俺たちしかいないし、子供もいないじゃないか。気のせいだよ」
沙織は唇をかみしめた。彼女の目は真剣だったが、雅也はそれを冗談のように受け取っていた。
家は静かな郊外の町にある古い一軒家だった。築六十年を超えており、リフォームをしているとはいえ、どこか空気が重たい感じがしていた。最初に内見した時、沙織は玄関の隅に何かが「立っている」ように感じたが、説明がつかず言葉を飲み込んだ。
その夜、沙織は眠れなかった。ふとんの中で目を閉じても、耳の奥に小さな足音と、くすくす笑う声が残っているように感じた。
翌日、近所のスーパーで買い物をしていた沙織は、レジに並ぶ途中、年配の女性から声をかけられた。
「あら、お宅はあの○○町の角の家に引っ越された方ね?」
「はい、そうです。何かありましたか?」
「あの家ねぇ、昔子供が…」
女性はそこで言葉を濁し、すぐに話題を変えた。だが、その一言は沙織の心に引っかかって離れなかった。
その夜、彼女は決意して廊下の突き当たりにビデオカメラを設置した。夜中の2時過ぎ、物音で目が覚めた沙織は、静かにベッドを抜け出しカメラを確認した。
映像には、白い服を着た小さな子供が廊下を横切る様子が映っていた。顔はぼやけていたが、確かにそこに「何か」がいた。
「ねぇ、これ見て」
翌朝、沙織はカメラの映像を雅也に見せた。
「…これは、いたずらじゃないのか? 誰かが家に侵入したとか…」
「じゃあ警察に連絡する?」
雅也は黙った。現実的に考えれば、そんな小さな子供が夜中に一人で廊下を歩くのはおかしいし、防犯センサーは反応していなかった。
その夜から、沙織の視線は常に後ろに向けられるようになった。台所に立っていると、背後に何かの気配を感じる。洗面所の鏡越しに、小さな影が通り過ぎるのが見える。
「ママ…ママ…」
それは、ある夜、はっきりと耳に届いた。子供の声だった。
「ねぇ、雅也、私たち、あの家から引っ越した方がいいかもしれない」
「冗談じゃない。せっかくローンも組んで買ったのに、何を言ってるんだ」
沙織は口をつぐんだ。だが、その夜、彼女は夢を見た。
夢の中で、白い服の少女が彼女の前に立っていた。
「どうして…わたしを見てくれないの…?」
その子供の目は黒く、底知れぬ闇を湛えていた。
翌朝、沙織は近所の図書館で家の歴史を調べた。すると、20年前、ある家族がその家に住んでいたことがわかった。その家族には5歳の娘がいて、ある日、家の階段から転落して亡くなったという記事が古新聞に載っていた。
「…やっぱり、この家にいるのはその子…」
沙織は、花とお菓子を用意して、廊下の突き当たりに小さな供養台を置いた。
「あなたのこと、忘れてないよ。寂しかったんだよね」
その晩から、足音も笑い声もぴたりと止んだ。
だが、安心したのも束の間だった。
ある日、沙織は外出中に自宅のカメラ通知を受け取った。スマホで映像を確認すると、玄関の前に、知らない子供が立っていた。白い服に、濡れたような髪。
画面越しに、子供がカメラに向かって微笑んだ。
その夜、家の中に張ったお札がすべて剥がれ落ちていた。
「…まだ、終わっていないのかもしれない」
沙織は霊媒師に相談することにした。
近所で評判の高い女性霊媒師・黒木久子が家に来た時、彼女は玄関に足を踏み入れた瞬間に言った。
「ここには、一人や二人ではない…もっと多くの『視線』がある」
黒木は居間に結界を張り、各部屋を見て回った。廊下の突き当たりに立ったとき、彼女は壁に手を当て、目を閉じた。
「この場所…封じられていた扉が開いたのです。あなたが“見た”ことで、彼らもあなたを“見た”。もう逃げるのは難しい」
沙織は言葉を失った。
その夜、霊媒師が儀式を行ったが、子供たちの霊は消えなかった。むしろ、彼らは家の中にある全ての鏡から姿を見せるようになった。
姿見、浴室の鏡、キッチンのステンレス板まで、どこを見ても「視線」がこちらを向いていた。
そして、ある日を境に沙織の姿は消えた。
警察の捜査でも手がかりは見つからず、家の中には争った形跡もなかった。
だが、廊下のカメラには、白い服を着た女性が、小さな子供たちに手を引かれながら廊下の奥へと歩いていく姿が最後に映っていた。
その女性は、確かに沙織だった。
彼女の目は、もう人間の目ではなかった。
現在、その家は空き家として放置されている。
だが、近所の人々の間では今でも噂が絶えない。
「夜になると、二階の窓から子供がこっちを見てる」
「その目が、明らかに“この世のもの”じゃないんだ」
時折、通報で訪れる警官ですら、家の周囲で小さな足音や、笑い声を聞いたと報告している。
そして、ある深夜。
ネット配信者の青年が肝試しとしてあの家に忍び込んだ。
配信中、コメント欄がざわついた。
「誰か、後ろにいる!」
「あれ、子供…? 笑ってる…」
数分後、配信は突然終了した。
翌朝、警察が家を捜索したが、青年の姿はなかった。
だが、カメラだけは残されていた。
最後に記録された映像には、無数の子供たちがカメラのすぐ前に並び、まるで視聴者に語りかけるように言った。
「つぎは…あなたの番だよ」

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