自傷行為

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自傷行為

鏡の中の傷

真夜中の町外れ、小さな古びたアパートの一室に、大学生の真希(まき)は住んでいた。
彼女は美術大学に通う学生で、日々、自身の内面と向き合いながら絵を描いていた。しかし、ここ最近は創作意欲が枯れ、代わりに彼女を蝕むようになったのは「自傷」という衝動だった。

「……また、やってしまった……」
洗面所の鏡の前で、真希は自分の腕にできた細く赤い線を見つめていた。包帯の上からにじむ血が、まるで絵の具のように感じられた。

それは、引っ越してきた数週間前からだった。この部屋の鏡に映る自分が、どこか「別人」に見え始めたのだ。

「……そんなはずないよね。疲れてるだけだよ」
そう自分に言い聞かせるたびに、鏡の中の“彼女”は、少しずつ笑みを深くしていった。

ある夜、真希は奇妙な夢を見た。
鏡の中の自分が、にやりと笑いながら話しかけてきたのだ。

「もっと深く切れば、私になれるよ」

飛び起きた真希の手には、折れたカッターが握られていた。

翌朝、大学の親友・奈々(なな)に相談しようとしたが、口を開いた瞬間、声が出なかった。喉を締め付けるような恐怖と、鏡の中の「彼女」の視線が、ずっと脳裏に焼き付いていたからだ。

ある雨の日の夕方、真希の部屋に奈々が訪ねてきた。

「最近、連絡つかないから心配で……。ねえ、顔色悪いよ、大丈夫?」

「……うん。ただちょっと、夢見が悪くて……」

奈々が部屋を見回すと、壁には血のような赤で描かれた絵が何枚も貼られていた。

「これ……全部、自分?」

「わからないの……描かされた気がして……」

そのとき、洗面所の方から「カン……カン……」という金属音が響いた。

「誰かいるの?」

奈々が洗面所へ向かうと、鏡に赤黒い手形がべったりと付いていた。

「なに、これ……」

真希はうつむきながら震えた声でつぶやいた。

「鏡の中に……私がいるの」

奈々はすぐさま彼女を抱きしめたが、その背後の鏡に映っていたのは、ニヤリと笑う真希の“もう一人”だった。

それから数日後。
真希は姿を消した。警察に届け出た奈々だったが、部屋には争った跡もなく、ただ洗面所の鏡だけが不自然に割れていた。

鏡の破片の一つには、奇妙な言葉が赤く書かれていた。

「傷を刻めば、心は自由になる」

奈々は鏡を見つめながら、思わず身を震わせた。

数ヶ月後、その部屋には別の女性・梨花(りか)が入居した。
物静かで少し影のある女性だったが、やがて彼女もまた、腕に包帯を巻くようになっていった。

そしてある日、彼女もまた口にした。

「鏡の中の私が、笑ってるの……」

その夜、梨花の耳元で声がささやいた。

「もっと深く切れば、本当の自分になれるよ」

鏡に映る“彼女”は、もはや梨花本人ではなかった。

——あの部屋には、鏡の中に棲む「傷の霊」がいるのだ。
苦しみ、傷ついた心を求めて、人を引きずり込む……

ある日、奈々は再びアパートを訪れ、管理人に問い詰めた。

「あの部屋で……何か、ありましたか?」

管理人は渋い顔をしながら語った。

「昔、戦後の頃にね、あの部屋にはある芸者崩れの女が住んでたんだよ。自分の顔が醜くなったって言って、毎晩鏡を見ては刃物で顔を切ってた。ある日、鏡の中に『若い自分が見える』って言い出して、ついに……自分の喉を……」

奈々は震える声で尋ねた。
「その後は?」

「しばらく空き部屋だったが、誰かが鏡を捨てなかったんだ。あの鏡は、彼女の魂を吸い取ったらしい」

その話を聞いた奈々は、決意した表情で部屋に向かった。
梨花を救うために、そして、真希の謎を明かすために。

梨花の部屋は真っ暗だったが、鏡の前には誰かが立っていた。

「……梨花?」

「違うよ、奈々ちゃん。私は……真希だよ」

鏡の中から声が響くと同時に、梨花の姿が鏡に引きずり込まれていった。

奈々は咄嗟に鏡に手を伸ばすが、表面は氷のように冷たく、彼女の手を拒むようだった。

「返して!真希を……梨花を……!」

その叫びに応えるように、鏡の中の“彼女”がゆっくりと口を開いた。

「自分の傷と向き合わなければ、誰も戻れない……」

奈々は鏡の前に座り、震える手で自分の手首にカッターを当てた。
そして涙を流しながらつぶやいた。

「ごめんね、真希……私、ずっと何もできなかった」

その瞬間、鏡が光を放ち、奈々は意識を失った。

目を覚ましたとき、奈々は病院にいた。
腕には包帯、枕元には誰もいなかった。
だが、カーテンの向こうから、誰かが覗いている気配がした。

「奈々ちゃん……ありがとう」

真希の声だった。しかし、振り返っても誰もいない。
病室の隅には、小さな鏡が置かれていた。
奈々がそれを覗くと——そこには、自分の姿の隣で微笑む真希が映っていた。

——だがその笑顔の奥に、今度は奈々の“もう一人”が、そっと目を開けていた。

終わりなき輪廻が、また一つ始まろうとしていた。

——あなたが鏡を見るそのとき、映るのは本当に「あなた自身」だろうか?

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