一本足の幽霊
一本足の幽霊
静かな山奥の村、「鬼無里村(きなさむら)」には、昔から語り継がれている奇妙な噂がある。それは「一本足の幽霊」が夜な夜な現れるというものだった。
村に住む高校生の悠斗(ゆうと)は、都会から引っ越してきたばかりだった。
「ねえ悠斗、知ってる? この村には一本足の幽霊が出るんだよ」
放課後、クラスメイトの里奈(りな)が言った。
「一本足? なんだよそれ、妖怪の話か?」
「違うよ。戦時中にこの村の近くで足を失って死んだ兵隊の幽霊らしいの。夜になると、カン…カン…って片足で地面を叩く音が聞こえるんだって」
悠斗は半信半疑だった。だが、村の子どもたちの間ではその話は有名で、「一本足の幽霊に出会ったら、二度と家に帰れない」とまで言われていた。
その夜、悠斗は寝つけず、縁側でぼんやりと夜空を眺めていた。満月が山を照らし、不気味な静寂が村を包んでいた。すると、ふいに——
カン…カン…
遠くから、金属を打つような音が聞こえてきた。
「……まさか、冗談だろ」
音はだんだん近づいてくる。悠斗の心臓は早鐘のように打ち、体が硬直した。
カン…カン…カン…
ついに、家の前の道まで音がやってきた。悠斗は恐る恐る障子の隙間から外を覗いた。そこには、影が一つ——
月明かりの下、白い軍服を着た男の姿。だが、右足がない。男は片足だけで器用に立ち、金属の義足を地面に打ちつけながら歩いていた。
「ひ……!」
男はゆっくりと悠斗の家に顔を向けた。目が合った——と、思った瞬間、男の顔がぐにゃりと歪み、口からは真っ黒な液体が垂れた。
悠斗は叫び声をあげ、後ずさりした。だがその時にはもう、幽霊の姿は消えていた。
次の日、学校で里奈にそのことを話すと、彼女は真剣な表情になった。
「それ、本当に見たの? ……ヤバいよ。目を合わせたら、連れていかれるって言われてるんだよ」
「連れていかれるって……どこにだよ?」
「この村の山の奥にある、旧陸軍の演習場跡地。そこには彼の死体が埋められているって噂があるの」
その夜、再びカン…カン…という音が悠斗の家の前に響いた。悠斗は今度、逃げずにその正体を確かめることにした。
懐中電灯を手に外へ出ると、道の先に再びあの幽霊がいた。だが、幽霊は何もせず、悠斗に背を向けて山へ向かって歩き始めた。まるで「ついてこい」とでも言うように。
「……なんなんだよ……」
恐怖と好奇心がせめぎ合いながらも、悠斗はその背を追った。
山道をどれほど登っただろうか。やがて木々の隙間から、崩れかけたコンクリートの建物が見えた。
「ここが……旧演習場……?」
建物の中は真っ暗で、湿った空気が漂っていた。床には古い軍靴、壊れたヘルメット、そして——血に染まった布きれが散乱していた。
幽霊は建物の奥で立ち止まり、悠斗を見た。
「……ここに、眠ってるのか?」
その瞬間、建物の空気が変わった。床が震え、壁のひび割れから黒い影が這い出してきた。
「うわっ!」
その影は兵士の形をした亡霊たちだった。顔がない者、腕がねじれた者、腹に穴の空いた者……彼らは呻きながら悠斗に向かって手を伸ばしてきた。
「や、やめろ!」
だが、一本足の幽霊が手を掲げると、他の霊たちはその場で消えていった。
「……君は……ただ……伝えたかっただけなのか……?」
幽霊は、悠斗に小さな木箱を差し出した。それは土にまみれ、錆びていたが、蓋を開けると中には手紙と古い写真が入っていた。
「これは……?」
手紙には震える筆跡でこう記されていた。
「私をこのまま忘れないでください。私は国のためではなく、家族のために戦ったのです」
悠斗はそれを読み、涙がこぼれた。
「……わかった。俺が、伝えるよ」
幽霊は静かに微笑み、そして月明かりの中に溶けていった。
それ以来、村では「一本足の幽霊」が現れることはなくなった。悠斗は学校の自由研究で、あの兵士のことを調べ、村の歴史として伝えることにした。
「人は、忘れられることが一番悲しいんだな……」
あの夜の出来事は、悠斗の心に深く刻まれていた。
——それから数年後。
大学生になった悠斗は、卒業論文のテーマとして「地方に残る戦争遺構と記憶の継承」を選んだ。指導教授に促されて、再び鬼無里村へと戻ってきた。
旧演習場はすでに立入禁止区域として封鎖されていたが、役場に許可を取り、撮影と記録を進めた。
「変わらないな……」
建物はより朽ちていたが、不思議なことにあのときの木箱はまだその場に置かれていた。埃を被っていたが、中身はそのままだった。
悠斗はその場で手を合わせた。
「……ちゃんと伝えてるよ。忘れてないから」
風が吹き、草木がざわめいた。ふと、耳元で微かな声が聞こえた。
「ありがとう……」
驚いて振り返ったが、誰もいなかった。ただ、地面に一本の軍靴の足跡が残っていた。
それは片足だけの、まっすぐに山を下る足跡だった。
——それ以来、悠斗は全国の村や町に残る戦争の痕跡を巡り、記録し続けている。あの一本足の幽霊が、彼の人生を変えたのだった。
カン…カン…という音は、もうどこにも響かない。
だが、それを聞いた者の心には、忘れてはならない声が、今も静かに語りかけてくる。

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