廃病院の沈黙

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廃病院の沈黙

廃病院の沈黙

午後十一時、東京郊外の山間にある廃墟と化した病院に、一台の車が静かに停まった。
運転席から降りたのは、大学で民俗学を専攻する学生・佐藤圭介だった。彼は卒業論文のテーマとして「日本の都市伝説の実地検証」を選び、今回の調査地にこの廃病院を選んだのだった。

「ここが…噂の“霧ヶ谷総合病院”か。」
圭介はヘッドライトで照らされた病院の正面玄関を見上げながら呟いた。
その廃病院には、1975年に原因不明の火災が起き、患者と医師合わせて20人以上が焼死したとされる。
その後病院は閉鎖され、以後夜な夜な「叫び声が聞こえる」「白衣の女が彷徨う」といった数々の怪談が生まれた。

「まあ、ただの噂だろう。現地に泊まって証拠が無ければ、それもデータになる。」
圭介は自分を鼓舞するように言い、バックパックからビデオカメラと懐中電灯を取り出した。

病院の扉は打ち捨てられており、鍵もかかっていなかった。
ギィ…と鈍い音を立てて扉を押し開けると、湿った埃と薬品の混ざったような空気が彼の鼻をついた。

「くっ…すげぇ臭いだな。」

彼はロビーに入ると、壊れた受付カウンター、散乱するカルテ、そして蜘蛛の巣に覆われた椅子の列をカメラに収めた。

「ここに…何かがあったのか。」

彼は一つ一つの部屋を回りながら、異変がないか注意深く観察した。
地下への階段を見つけたとき、圭介の胸がざわついた。
—そこには、「関係者以外立入禁止」と書かれた朽ちた札が残されていた。

「…興味をそそるな。」
懐中電灯を照らしながら階段を下りると、そこは手術室や霊安室があるフロアだった。
廊下は真っ暗で、床には割れたガラスや古びた器具が散乱している。

カツン…カツン…
後ろから何かが足音のように響いた。
圭介は立ち止まり、振り返った。
誰もいない。

「…気のせいか?」
再び歩き出すと、突然懐中電灯が一瞬チカチカと明滅した。
ビデオカメラの映像にも、何か白い影のようなものが映っていた。

「おいおい、まさか本当に…?」
圭介が言葉を飲み込んだ瞬間、手術室の扉がギィ…と音を立てて自然に開いた。

「誰かいるのか?」
彼は恐る恐る中へと足を踏み入れた。
そこには焦げ跡の残る手術台と、壁に張り付いた血痕のような染み。

—カサッ。
彼の後ろで、何かが動いた。
圭介は振り返り、そこで“それ”を見た。

白衣を着た女が、顔を焼け爛れたまま、じっと彼を見つめていたのだ。

「う、うわあああああっ!」
圭介は叫びながら後退りし、足元の金属トレイにつまずいて転んだ。
その瞬間、女はスッと姿を消した。

「幻覚…じゃない。確かに見た…!」
彼は息を荒げながら立ち上がり、手術室を後にした。
だがそのとき、病院中のスピーカーから、突如としてノイズ混じりの放送が流れた。

『次の診療を…始めます……処置室へ…お進みください……』

「…嘘だろ。電気通ってないはずだ…」
圭介は逃げるように階段を駆け上がり、ロビーまで戻った。
ところが、玄関が…閉まっていた。
いや、それだけではない。外の景色が…真っ白な霧で覆われていたのだ。

「閉じ込められた…?」

その瞬間、背後で「カツン…カツン…」と誰かの足音が聞こえた。
振り返ると、再び“白衣の女”がいた。
だが今回は一人ではない。周囲の廊下から、次々と“焼け爛れた患者たち”が現れた。

「ここは…もう“あの世”なのか…!?」

圭介は走り出した。逃げ道を探し、病室や階段を必死に駆け巡った。
ある病室の扉を開けると、そこには「火災前の霧ヶ谷病院」がそのまま残っていた。
整然としたベッド、穏やかな看護師の声、そして…

「圭介…さん?」

彼は振り返った。そこには亡くなったはずの姉、佐藤美咲が立っていた。

「み…美咲姉さん…?嘘だろ…?」
「どうして来たの…?ここは、生者が来る場所じゃない…」

「でも…君は死んだはずじゃ…」

「戻りなさい。ここにいれば…本当に、戻れなくなる…」

その瞬間、全てが白く光に包まれた。

——気が付くと、圭介は車の中で目を覚ました。
朝日が差し込み、周囲には病院の廃墟があるだけで、霧も無かった。
あれは夢だったのか…?彼はそう思った。だが…

バッグの中には…焦げ跡のあるカルテが、一枚だけ残されていた。

【その後】
圭介は卒論を完成させたが、病院のことには触れなかった。
あの出来事を語るたび、あの“白衣の女”の声が、耳の奥で響くのだ。

——「次の診療を…始めます」
そして今日もまた、誰かが廃病院を訪れようとしている。
その沈黙の中に、恐怖が今も生きているとは知らずに。

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