古い旅館の客
古い旅館の客
「ここが…例の旅館か」
大学三年生の直人は、静かな山奥にひっそりと佇む古びた旅館を見上げながら、ぼそりと呟いた。卒業論文の題材に選んだ「日本各地の消えた宿泊施設」に関する調査の一環で、この『旅館しらさぎ』を訪れたのだ。
旅館は地元でも「もう営業していないはず」と噂されており、Googleマップにも表示されない不思議な存在だった。
戸を引くと、きぃ…と不気味な音を立てて開いた。
「いらっしゃいませ」
不意に、奥から女将と思しき女性が現れた。顔には深い皺が刻まれていたが、その目は鋭く、直人を見つめていた。
「一晩だけ泊まりたいのですが…」
「もちろん。空いておりますよ。お客様は久しぶりです」
不気味な静けさの中、直人は案内された二階の部屋に荷物を置いた。窓からは深い森しか見えず、電話も圏外。文明から切り離された空間に、自然と緊張が走った。
夕食は一階の広間で用意されていた。質素だが丁寧な料理が並び、女将は静かに言った。
「夜十時を過ぎたら、決して廊下に出ないでくださいね」
「なぜですか?」
「この旅館には、…昔から“夜の客”がいるのです」
冗談かと思ったが、女将の表情は変わらなかった。
その夜。時計が十時を回った頃、直人はふと目が覚めた。窓の外に気配を感じたのだ。
「誰かいる…?」
カーテンをそっと開けると、庭先に白い着物の女が立っていた。顔は見えず、まるで霧のように揺らめいていた。
怖さに震えながらも、直人は廊下に出てしまった。
旅館内は静まり返っていたが、ふと、一室からすすり泣く声が聞こえた。
「…ひどい…どうして、わたしだけ…」
おそるおそる襖を開けると、そこには誰もいなかった。が、畳は濡れており、涙のような痕が残っていた。
「やっぱり、何かがおかしい…」
翌朝。
女将は何事もなかったように朝食を用意していた。直人は昨夜の出来事を話そうとしたが、女将は首を横に振るだけだった。
「過去に囚われた者が、まだこの旅館に…」
直人は詳しく調べるため、村の古い資料を扱う郷土館へ足を運んだ。そこで「旅館しらさぎ」に関する古新聞を見つけた。
『昭和五十年、旅館しらさぎにて一家心中。宿泊中の一家四人が、全員不可解な死を遂げた』
背筋が凍った。記事には、白い着物の母親が最後に姿を消し、今も行方不明だと記されていた。
「昨夜見たのは…その女…?」
直人は恐怖を振り払うように旅館へ戻った。だが、その姿は消えていた。
建物は倒壊しかけ、入り口も草に埋もれていた。
「そんな馬鹿な…昨日まで普通に泊まってたのに…」
ふと足元を見ると、宿帳が落ちていた。
そこには、直人の名前と日付の横に、薄くこう書かれていた。
『夜の客 一名 増加』
「な…んだこれ…」
その瞬間、風が吹き抜け、誰かの声が耳元で囁いた。
「…ようこそ、こちら側へ…」
直人の姿を見た者は、その後いない。
数年後、山に入った登山者が、森の中で倒壊した旅館の一室で古びたノートを見つけた。
そこにはこう記されていた。
『私はまだここにいる。夜の客として。次の訪問者を待っている』
それ以来、旅館しらさぎの噂は再び広まり、誰もその山には近づかなくなった。
しかし数ヶ月後、大学のゼミ仲間だった彩乃が直人の行方を捜して同じ旅館を訪れた。地元の人間に場所を尋ねても、皆一様に顔を曇らせ、口を閉ざした。
「あの旅館は…見つけてはいけないものを見てしまう場所だ」
それでも諦めず、彩乃は山を登った。やがて霧の中に、あの『しらさぎ』の屋根が見えた。確かにそこに、存在していた。
入口には誰もいなかったが、中に入ると埃の中から微かに足音が聞こえた。
「…なおと?」
呼びかけると、奥の部屋から返事があった。
「…ここだよ、彩乃…来てくれて、うれしい…」
その声は間違いなく直人のものだった。
しかし部屋を開けた瞬間、そこには誰もいなかった。ただ、血のような赤い筆跡で壁に書かれた言葉だけが残っていた。
『次は君だ』
彩乃は叫び声をあげ、旅館を飛び出した。
だが、出入口は既に無くなっていた。建物そのものが、霧の中に溶け始めていたのだ。
「やだ…いや、こんなの…直人…助けて…!」
その声が森にこだましたとき、旅館は完全に霧の中へと消えた。
以来、彩乃もまた行方不明となり、旅館しらさぎの“夜の客”は二人へと増えた。
現在、地図にはその場所は載っておらず、誰も正確な場所を語ることはできない。ただ、山道を外れてふと風の流れが変わる瞬間、耳元で聞こえるという。
「ようこそ、しらさぎへ。…部屋は、まだ空いていますよ」

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