古い日記帳

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古い日記帳

古い日記帳

梅雨が始まる少し前のことだった。大学三年生の佐藤圭一(けいいち)は、祖母が亡くなったのをきっかけに、しばらく空き家となっていた祖母の家を整理するため、山間の小さな町へと足を運んだ。

その家は築80年を超える木造の平屋で、雨が降ると天井からぽたぽたと音を立てるほど老朽化していた。

「なんで俺が一人でやらなきゃならないんだよ……」
圭一はぶつぶつ文句を言いながら、埃だらけの本棚を整理していた。

その時、ふと背中に冷たい視線のようなものを感じた。
「……?」
誰もいないはずの家の中で、妙な気配がする。圭一は肩をすくめて気のせいだと自分に言い聞かせたが、何かが引っかかった。

本棚の奥に、小さな木箱が隠されていた。箱には古びた鍵がかかっており、埃を払うと「昭和十四年」と書かれた日付が浮かび上がった。

好奇心に駆られた圭一は、引き出しにあった鍵束を試してみる。カチリ。思ったよりも簡単に開いた。

中には、革張りの古い日記帳が一冊だけ入っていた。

「なんだこれ……ひいおばあちゃんのか?」
圭一はゆっくりと日記を開いた。最初の数ページは、日々の暮らしや畑仕事の記録、近所の噂話などが書かれていた。

だが、六月五日のページから急に筆跡が乱れ、文体も変わっていた。

「……あの声がまた聞こえた。裏山から女の呻き声。誰も信じてくれない。夜になると、天井裏から足音が……」

圭一は眉をひそめた。
「なんだこれ……狂ってたのか?」

次のページにはこう書かれていた。
「村の外れの古井戸に近づくな。あそこは“あの人”がいる場所。声を聞いたら、決して返事をしてはいけない」

圭一の手が止まった。
「……この日付、ちょうど86年前の今日だ」

ちょうどその時だった。
ガタ……

背後で何かが倒れる音がした。
「だ、誰かいるのか?」
返事はなかった。

圭一は息を飲み、リビングへと戻った。誰もいない。しかし、襖が微かに揺れている。

「風……か?」
そう思って近づいた瞬間——
襖の向こうから、女のすすり泣く声が聞こえてきた。

「……返して……かえしてぇ……」

ぞっとした圭一は、日記帳を閉じて箱に戻そうとした。
だが、その手が止まった。

日記の最後のページに、こう記されていたのだ。
「この日記を読んだ者へ。この家を離れよ。声を聞いたなら、もう遅い。次は——」
そこから先はインクが滲んで読めなかった。

その夜。
圭一は祖母の布団で横になっていた。雨が激しくなり、屋根を叩く音が部屋に響く。だが、それよりも異様な音が混じっていた。

カタ……カタカタ……ギィィィ……
古い廊下を誰かが歩いている。

「……誰だよ……」
圭一は恐る恐る起き上がり、廊下へと出た。
そこには誰もいなかった。

しかし、廊下の奥にある天井裏への梯子が、少し降りていた。
まるで「登れ」と言わんばかりに。

「ふざけんなよ……こんな時間に……」
だが、圭一の足は勝手に動いていた。まるで何かに導かれるように。

天井裏に登ると、そこには……
白いワンピースを着た女が、壁に向かって立っていた。髪は乱れ、背中が小刻みに震えている。

「……あの……」
圭一が声をかけた瞬間、女がゆっくりと振り返った。

目がなかった。
真っ黒な空洞の中で、何かが蠢いていた。

「かえして……わたしの、にっき……」

圭一は叫び声を上げ、転げ落ちるように天井裏から逃げ出した。

翌朝、圭一は近所の古老から驚くべき話を聞いた。
「あの家か……昔、あそこで娘が死んだんじゃ。井戸に落ちてな……それから毎年この時期になると、声がするんじゃよ」

圭一は震える手で、日記帳を燃やした。もう、二度と誰にも読ませないように。

だが、それからというもの——
毎年六月五日になると、圭一の部屋の壁に、女のすすり泣きが聞こえるようになったという。

「返して……私の日記帳を……」

それは、燃やされたはずの“古い日記帳”の、呪いだったのかもしれない……。

――翌年――

圭一は再び町を訪れ、地元の図書館で“井戸事件”について調べた。
昭和十四年六月五日、「佐藤家の長女、静(しず)」が井戸に転落して死亡。その死には不可解な点が多く、誰かに押された可能性もあるとされていたが、証拠不十分で事故と判断された。

「静……ひいおばあちゃんの妹?」
古老がさらに語る。
「静ちゃんは日記を書くのが好きでのう。亡くなる前日も、井戸の前で何か書いとったそうじゃ……」

圭一は再び祖母の家へ足を踏み入れた。今度は日記を供養するために。
しかし——

夜になると、また声が聞こえた。
「返して……返して……」

圭一は仏間で線香を焚き、日記の残骸を前に手を合わせた。
「静さん……すみませんでした……もう誰にも見せません……どうか、安らかに……」

その瞬間、背後で風が吹いたように障子が音を立てた。だが、静かだった。
それ以来、声はぱったりと止んだという。

だがある日。
圭一の部屋に届いた小包。差出人不明。中には、焦げ跡のある日記帳の一片と、小さな手紙が入っていた。

「これで終わりだと思った? まだ、ページは残ってるのよ……」

圭一は絶句した。日記はまだ、終わっていなかったのだ。

そして今年もまた——
六月五日が、近づいてくる。

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