悪夢からの脱出
悪夢からの脱出
「この夢、まただ……」
目を覚ました瞬間、浩平(こうへい)は冷や汗で背中を濡らしていた。
東京郊外に住む彼は、ある晩から毎晩同じ悪夢を見るようになった。
夢の中で彼は、どこかの古びた日本家屋に閉じ込められ、赤い着物を着た女に追い詰められるのだ。
「目が覚めても、心臓の鼓動が収まらない…」
浩平はネットで夢占いを調べ、精神科にも相談したが、原因は分からなかった。
ある日、夢の中で女が口にした言葉が彼の耳に焼き付いた。
「帰して、ここから……」
それは単なる恐怖ではなく、何かを訴えるような声だった。
「何かが俺に助けを求めている……?」
そう思い始めた浩平は、夢の家の構造をノートに描き、詳細を記録し始めた。
すると不思議なことに、夢の中の家は少しずつ変化し始めた。
最初は閉じたままだった扉が開いたり、障子の向こうに誰かの姿が見えたりするようになった。
ある晩、夢の中で古びた仏間にたどり着いた浩平は、そこで一枚の古い写真を見つける。
赤い着物の女と、その横に幼い女の子が写っていた。
「この家…どこかで見たような…」
翌日、浩平は思い立って古い地図を手に入れ、夢の家に似た建物を探し始めた。
そして、山梨県の山奥にある廃村「十倉(とくら)」に、夢とそっくりの日本家屋があることを突き止める。
「こんなに夢と一致するなんて…偶然じゃない」
彼は車を走らせ、十倉を訪れた。
村は完全に廃墟と化していたが、一本の細道の先に、夢で何度も見たあの家があった。
「本当にあったんだ…」
彼は恐る恐る玄関を開け、中に足を踏み入れた。床は軋み、空気は重苦しかった。
夢の中と同じ配置の部屋を進むと、仏間にたどり着いた。そこには、夢と同じ写真が置かれていた。
「これが…あの女か?」
写真の裏にはこう書かれていた。
「昭和二十年、早乙女志乃、娘・綾香」
突然、家の奥から足音が聞こえた。
「誰かいるのか…?」
声をかけても返事はない。
だが、仏間の障子がスーッと開き、そこに赤い着物の女が立っていた。
「やっと…来てくれたのね」
女の目は涙で潤んでいた。
「ここから出たい…綾香が、まだ…」
「綾香って…娘さんですか?」
女はこくりと頷いた。
「あの子は、戦争で亡くなったとされていたけど…実はこの家で亡くなったの。誰にも知られずに…」
「どうしてそんなことが…?」
「私が…隠してしまったの。飢えと寒さで弱った娘を…自分の手で……」
浩平は言葉を失った。
「でも、どうして俺に夢を見せたんです?」
「あの子の魂が、まだこの家に囚われているの。あなたは“見る力”を持っていた。だから、助けを求めたの」
女の指差す先には、床下へと続く古い木戸があった。
「そこに…綾香が眠っているの」
浩平は木戸を開け、懐中電灯を手に床下に降りた。そこには、白い布に包まれた小さな遺骨が静かに置かれていた。
彼はそれを抱きかかえ、仏間へと戻る。
女は涙を流しながら、その骨を見つめた。
「ありがとう…これで、やっと綾香と一緒に…」
その瞬間、家全体が光に包まれ、女の姿はゆっくりと消えていった。
それ以来、浩平の悪夢は二度と現れなかった。
だが、ある夜、彼の夢の中に再び志乃が現れた。
「ありがとう。でも、まだ…一人、迷っている子がいるの」
浩平はふと、自分の使命が終わっていないことに気づく。
夢は恐怖ではなく、悲しみの声だったのだ。
翌日、彼は十倉村の郷土資料館を訪れた。管理人の老女は、彼の話を聞くと顔色を変えた。
「あなた…あの家に行ったのね?早乙女家の話は、村でも封じられていたのよ」
「まだ誰か、霊が迷っているって…」
老女は頷き、さらに一枚の古い地図を見せてきた。
「この裏山に“天狗岩”という祠がある。戦時中、子供たちを隠すために使われていたらしいの」
浩平は祠を探して山道を登った。途中、子供の泣き声のようなものが聞こえた。
「誰か…いるのか?」
しかし、返事はなく、霧が立ち込める中、小さな祠にたどり着く。
中に入ると、そこにはボロボロの人形と、古い木札が置かれていた。
「昭和二十年、綾香の弟・祐一」
「え…弟がいたのか…?」
その瞬間、背後から小さな手が彼の裾を掴んだ。
振り返ると、青白い顔の少年が立っていた。
「お兄ちゃん、見つけてくれてありがとう」
彼は静かに消え、空には一筋の光が差し込んだ。
浩平は胸に手を当てた。
「これで、きっと…全て終わったんだ」
悪夢からの脱出は、ただの解放ではなかった。
それは、迷い続ける魂たちを導く旅の始まりだったのかもしれない。
その夜、浩平は久しぶりに深く眠った。そして、夢の中にはもう何も現れなかった。
ただ、遠くで誰かが微笑んでいるような、そんな温かい光景だけが残っていた――。

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