悪魔の囁き

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悪魔の囁き

悪魔の囁き

「ねえ、聞こえる?」
その声は、深夜二時を過ぎた頃、智也の耳にそっと届いた。
東京郊外の古びたアパートで一人暮らしをしている彼は、その夜もいつも通り寝ようとしていた。しかし、頭の中に直接響くような、かすれた女の声に思わず目を開いた。

「……誰だ?」
彼は布団から身を起こし、辺りを見渡すが、部屋には誰もいない。ただの幻聴かと思い込もうとした矢先、またその声が囁いた。

「君の願い、叶えてあげようか?」
ゾクリと背筋が凍った。声には感情がない。ただ淡々と、だが耳元で囁くように甘い。

智也は大学に通う普通の学生だったが、最近は就職活動のストレスと、密かに想いを寄せていた同級生の沙織に彼氏がいることを知って、気分が沈みがちだった。

「……願いって、なんのことだ?」
思わずそう答えてしまった自分に驚きながらも、声はすぐに反応した。

「君が望むもの。愛、成功、復讐。なんでも。」

翌朝、目が覚めた智也は、昨日の出来事を夢だと片づけようとした。しかし、机の上には見覚えのない黒い紙が置かれていた。そこには赤い文字でこう書かれていた。
「今夜も話そう。窓を開けて待っていて。」

恐怖と興味が入り混じったまま、智也は夜を迎えた。そして約束通り窓を開けてみると、外から冷たい風が吹き込んできた。

「いい子ね、ちゃんと待っていてくれた。」
その声に、智也は震えながらも答えた。
「君は……誰なんだ?」

「私は、ただの案内人よ。君の心の奥底を、代弁するだけ。」

それから数日間、智也は毎晩その声と話すようになった。願いを口にするたび、現実が少しずつ変わっていった。
教授に嫌われていた彼が急に褒められ、沙織の彼氏が事故に遭って意識不明になり、沙織が泣きながら智也に相談を持ちかけるようになった。

「君の願いは叶っている。満足かしら?」
そう尋ねる声に、智也はうなずいた。

「……でも、代償は?」
「代償? ふふ、それはまた今度。」

しかし、そこから智也の周囲で奇妙なことが起こり始めた。鏡に映る自分の目が別人のように見えたり、深夜の夢に声の主らしき黒い影が現れたりするようになった。

ある夜、智也は堪えきれず声に問い詰めた。

「お前はいったい何者だ! 悪魔か?」

「あら、今頃気づいたの? 最初から名乗っていたじゃない。囁く者、堕とす者。私の声に答えた時点で、もう逃げられないの。」

その瞬間、部屋中の電気が落ち、闇が智也を包んだ。耳元で何重もの声が重なって囁く。

「次の願いはなに?もっと欲しい?もっと壊したい?」

智也は叫んだ。「いらない!もう何も望まない!戻してくれ!」

しかし、声は笑うだけだった。

「戻る?もう遅い。君の魂は、もう契約の印で染まってる。ほら、胸に手を当ててごらん。」

言われた通りにすると、智也の胸には黒く焼けたような紋章が浮かび上がっていた。それはまるで悪魔の印のようだった。

「これは……」
「君の“望み”の証。もう一度言うけど、私は君の心の声を形にしただけよ。望んだのは君。」

智也はその夜、声から逃げるようにアパートを飛び出した。しかしどこへ行っても声はついてくる。地下鉄の中でも、図書館でも、風呂の中でも。

「まだ終わっていないわよ、智也。君には、まだやり残した願いがあるでしょう?」

逃げ場はなかった。精神的に追い詰められた智也は、ついに精神科病院に入ることになった。

しかし、そこでも――

「ねえ、智也。今日も話そうか?」

彼の耳元には、あの甘く、冷たい囁きが永遠に続いていた。
そして、その囁きに応じるたびに、また誰かが不幸になる。

入院して数週間が経ったある日、智也は一人の看護師にあることを打ち明けた。
「……俺、自分で人を不幸にしてる気がするんです。願ったら、誰かが壊れていく。」

その看護師、森下は驚いたように目を見開いた。
「それ、以前にも同じことを言った患者がいたわ。」
「えっ……?」
「その人も、“声が囁く”って言って、最後には――自分の舌を噛み切って……」

ゾッとした智也の脳裏に、かつて声が言っていた言葉が蘇る。
「囁きを止めたければ、自分の“声”を消せばいい。」

その晩、智也は病室で鏡に向かって座った。
「……お前を終わらせるには、俺が……」

だが、そのとき鏡の中の自分が、口元を吊り上げて笑った。
「できるの?君にそんな覚悟、あるのかしら?」

手にしたカッターが震える。涙が頬を伝う。

「俺が……始めたことだ……責任は……俺が……!」

だが刃をあてたその瞬間、病室の扉が開き、森下看護師が飛び込んできた。

「やめなさい智也くん!」

それ以来、智也は薬の処方を変えられ、声は徐々に聞こえなくなった。

――ただし、それは表面上だけだった。

退院した彼が家に戻り、ふと棚の奥から見覚えのないノートを見つけた。開くと、赤い文字でこう書かれていた。
「おかえり、智也。新しい願い、準備はできてる?」

絶望の中で彼は気づいた。
この囁きは、決して終わらない。

悪魔はいつも、人の“弱さ”を餌に、そっと耳元で囁くのだ。
そして今日もまた、どこかで誰かが、その声に答えてしまう――。

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