天狗の誘い
天狗の誘い|日本の山村に伝わる恐怖の物語
静かな山間の村、名を「霧峰村」といった。古くから「天狗の山」と呼ばれる深い森が村の北に広がり、人々は決してその山に足を踏み入れてはならぬという掟を守っていた。
「夜、あの山に近づくと、天狗に誘われるぞ」
そう祖父母たちは子供たちに言い聞かせていた。誰もがその言葉を恐れ、山へ近づくことはなかった。だが、一人の青年がその禁を破ってしまった。
――
主人公の名は涼介(りょうすけ)。都会の大学に進学していたが、久しぶりに夏休みで故郷の霧峰村へ帰省していた。
「なんでこの村は、こんなにも静かなんだろうな…」
夕暮れ、縁側に座る涼介はぽつりと呟いた。祖母の澄代が茶を運んでくる。
「静かなのはええこっちゃ。でもな、静かすぎるのも…時に恐ろしいもんよ」
「またその話? 天狗とか、もう時代遅れだよ」
澄代は目を細めて、静かに首を振った。
「涼介、決して北の山へは行っちゃならんよ」
その言葉が、妙に耳に残った。
――
翌日、涼介は幼なじみの沙耶(さや)と再会した。沙耶は地元で看護師をしており、気の強いが心優しい女性だった。
「相変わらずね、涼介。都会に染まった?」
「まあな。でもさ、この村、変わってないなぁ。あの天狗の山も健在?」
沙耶の表情が一瞬固まる。
「涼介…本気で言ってる? あの山には近づかない方がいい。最近また、変なことが起きてるの」
「変なこと?」
沙耶は声をひそめた。
「先月、村の高校生が3人、肝試しで山に入ったの。ひとりは見つかったけど…気がふれてて、何も話せないのよ」
「それってただの迷信でしょ? 俺、ちょっと見てくるよ」
沙耶の顔が青ざめた。
「やめて! 本当に、やめて…!」
――
その夜。満月が山を照らす中、涼介は一人で北の山へ向かった。
「こんなもん、ただの森じゃん。雰囲気はあるけどさ…」
木々が風に揺れ、梢から囁くような音が響く。
「……すけ……りょうすけ……」
風の音かと思ったが、はっきりと自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「誰だ?」
あたりを見渡すと、木々の間に赤い顔と長い鼻の影が見えた。
「……天狗……?」
次の瞬間、意識が遠のいた。
――
目を覚ますと、そこは見知らぬ場所。霧が立ち込め、空は赤黒い。木々はねじれ、空間そのものが歪んでいる。
「ここは…どこだ…?」
前方に、人の姿があった。赤い装束、烏帽子、そして異様に長い鼻。天狗だった。
「お前は、望んで来たのだな。人の世を嫌い、山の理に惹かれて」
「ちが…う、帰してくれ!」
天狗はにやりと笑う。
「ならば、試練を越えてみよ。逃げられぬぞ、この“天狗の界”からは」
――
涼介は目の前に現れた古びた鳥居をくぐらされ、無限の迷路に閉じ込められた。どこまでも続く石段、血のように赤い月、枝にぶら下がる無数の面(おもて)。それらはすべて、かつて天狗に誘われ戻れなかった者たちの「顔」だった。
「助けてくれぇぇえええっ!!!」
叫んでも誰も答えない。ただ、木々の奥から低く笑う声が響く。
「愚かな人間よ……お前も、ここで顔を晒すのだ……」
その時、涼介の胸ポケットから、沙耶がくれたお守りがこぼれ落ちた。
それに触れた瞬間、白い光が爆ぜ、空間が歪む。
「何だこれは――ッ!?」
天狗の声が怒りに満ちる。
涼介の体が吸い込まれるように、闇の裂け目に落ちていった。
――
「涼介! 涼介!!」
聞き覚えのある声が響く。気づけば彼は山の中で倒れており、沙耶と村人たちに囲まれていた。
「よかった…気がついた…」
沙耶が泣きながら手を握る。
「夢…じゃ、ないよな…? あの天狗の目…」
「うん、夢じゃない。私も、昔一度だけ…見たことがあるの」
沙耶の瞳には、確かに怯えと理解が浮かんでいた。
涼介はもう二度と、その山へは近づかなかった。そして天狗の伝説は、今も霧峰村の深い森の奥で、静かに息づいているのだった。

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