死者の書
死者の書|封印された寺と呪われた巻物の物語
静岡県の山奥に「桧谷村(ひだにむら)」という小さな集落があった。人口はわずか百人に満たず、携帯の電波も届かないような場所。そこには一つの奇妙な伝承があった――「死者の書」と呼ばれる禁断の巻物が、村の古寺に封印されているという。
大学で民俗学を学ぶ青年・優斗(ゆうと)は、卒業論文の題材にその伝承を選び、春の休みに村を訪れた。
「あなた、本当にあの寺に行くつもりですか?」
村で最初に出会ったのは、地元の若い女性・志保(しほ)だった。村の唯一の旅館で働いており、優斗の訪問に強い警戒心を見せていた。
「ええ、調査のために少しだけ。巻物が本当に存在するのか知りたくて」
志保は顔をしかめた。
「あの寺――白雲寺(はくうんじ)は、50年前に閉ざされて以来、誰も近づいていません。死者の書は、開いた者を“迎えに来る”って…」
「都市伝説にしては面白いですね。でも、事実確認が僕の仕事なんです」
志保は諦めたようにため息をつき、小さな木箱を取り出した。
「これを持っていって。うちの祖母が“寺に入るときは必ず身に着けろ”って言ってたの。中には護符が入ってる」
――
翌日、優斗は山道を登り、霧に包まれた白雲寺の前に立った。苔むした石段、割れた瓦、風に軋む扉――すべてが時間に取り残されていた。
「ここが…死者の書のある場所…」
扉を押し開け、寺の本堂に足を踏み入れると、薄暗い空間の奥に祭壇が見えた。そこに、巻物が納められたと思われる黒漆の箱が安置されていた。
優斗は迷わず近づき、手袋越しに蓋を開けた。
「……本当にあった……」
中には、黒く変色した古文書が巻かれていた。文字は読めないほど崩れていたが、触れた瞬間、風もないのに周囲の空気が激しく揺れた。
「うっ……?」
頭の中に声が響く。
――ヨク…ミエタナ……イマ、オマエヲ、キザミツケル……
優斗は背後を振り返った。誰もいない。だが、足元に、先ほどまではなかった足跡が現れていた。湿った土の上に、裸足の足跡が続いている。
「誰か…いるのか!?」
その瞬間、巻物が突如、白い煙を上げて燃え始めた。だが炎は熱を伴わず、代わりに寒気が体を包み込む。
――
気がつくと、優斗は寺の中ではなく、全く別の空間に立っていた。空は血のように赤く、地面には白骨が散乱していた。周囲に立つ木々は逆さに伸び、重力さえ歪んでいるように見えた。
「……ここは……夢……じゃないよな」
その時、骨の山の上に、白い衣をまとった人物が立っていた。顔はなく、ただ黒い虚無がそこに空いている。
「書を読んだ者よ……ようこそ、死者の世界へ」
優斗は後ずさりながら叫んだ。
「僕は読むつもりなんてなかった!研究のために――」
「言い訳は、生者の理。ここでは意味をなさぬ。命をもって、贖え」
白い影が滑るように近づいてくる。優斗はポケットにしまっていた護符を握りしめ、必死に叫んだ。
「志保……助けてくれ……!」
すると護符が眩しく輝き、空間が大きく揺れた。
「……あの女の加護か。だが、逃れられぬ。死者の書は、開いた者を見逃さぬ」
空間が崩れ、優斗の意識は再び闇に落ちた。
――
「優斗さん!!」
志保の声で、彼は目を覚ました。気がつけば、白雲寺の前で倒れていた。
「どうしてここに…?」
「心配で…夢にあなたが“助けて”って…それで、護符が反応したの」
巻物のあったはずの箱は、跡形もなく消えていた。
「……あれは、現実だったのか……?」
志保は静かに頷いた。
「私たちの村は、かつて死者の国と繋がっていた。その門を封じるために、巻物が封印されていたの。でも、もう…」
優斗はその場に膝をついた。自分がしたことの重大さに、今さらながら震えが止まらなかった。
――それから村では、夜になると奇妙な声が山から聞こえるようになったという。
「……ミツケタ……ヨンダノハ……オマエ……」
死者の書は、もはやこの世にない。しかし一度でもそれを目にした者は、決してその呪縛から逃れられない――
それから数日後、優斗は大学に戻った。だが、彼の周囲では次々と奇怪な現象が起き始めた。研究室の書棚が夜中に崩れ落ち、無人の廊下で背後に誰かの息遣いを感じる。
「……なぜ、戻ってきたのに終わらない……」
夢の中で、あの赤い空と骨の山が繰り返し現れた。眠るたびに、声が聞こえる。
「書を開いた者よ、汝の魂はすでにこちら側だ」
ついには、優斗の目の下に黒い痣のような模様が浮かび上がるようになった。医者は原因不明としか言わなかったが、志保にはわかっていた。
「“記された者”として、あなたの名前が書に刻まれてしまったのよ……」
志保は一族に伝わる奥の巻を取り出した。それは、死者の書の“対の巻物”と呼ばれるものだった。
「この巻物に、あなたの名を消し、代わりに“帰還”の印を刻むしかない。でも……」
「でも、何だい?」
「成功すれば、あなたは助かる。でも失敗すれば、私の魂が“向こう側”に連れていかれる」
優斗は静かに、志保の手を握った。
「一緒に来てくれて、ありがとう。君と会えたことだけが、あの村の呪いの中で救いだったよ」
その夜、二人は対の巻物を開き、儀式を始めた。蝋燭の火が揺れ、空気が張り詰める。志保が祝詞を唱え、優斗の名を書から消そうとしたその瞬間――部屋中の灯りが消えた。
「来た……!」
闇の中から、白い影が現れた。
「逃れることなど……許されぬ」
しかし志保は恐れず叫んだ。
「この名は、今ここで解かれる!帰れ、死者の書よ!」
巻物が眩しく光を放ち、影を押し返した。影が叫びながら消えていく中、優斗の痣は徐々に薄れ、やがて跡形もなく消えた。
朝日が差し込んだとき、二人は無事に生き残っていた。巻物はその場で灰となり、もう使えない状態になっていた。
だが志保は、優斗の手をしっかりと握りながら、静かに言った。
「これで終わりじゃないわ。死者の書は、また別の場所で……誰かに見つけられる。だから、私たちが伝え続けないといけない」
優斗は頷いた。
「語り継ごう。死者の書に触れてはいけないと。封印されし言葉には、命が宿ると」
こうして二人は、呪いと恐怖を越え、新たな守り手となったのだった――。

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