精神分裂の恐怖

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精神分裂の恐怖

精神分裂の恐怖:静かな村に潜む影

長野県の山間にある「神久村(かみひさむら)」は、かつて自給自足の生活を送っていた静かな村であった。しかし昭和の終わり頃、その村で一連の「心が壊れていく病」が流行したと、今でも年寄りたちは小声で語る。

村の中心に暮らしていたのは、一見穏やかそうな青年・藤木陽一(ふじき よういち)だった。東京から帰郷して農作業を手伝っていた彼は、ある日突然、自分の人格が「誰かに乗っ取られている」と訴え始めた。

「父さん……俺の中に、誰かがいる」

そう訴えたのは、夕食後の静かな食卓だった。

「なにを言ってるんだ陽一。疲れてるんだろう、畑仕事がきつかったんだな」

父親の正男(まさお)は苦笑いを浮かべながら言ったが、陽一の目は笑っていなかった。むしろ、まるで他人を見るような鋭さを持っていた。

翌日、陽一は朝早くから裏山へ行ったまま戻らなかった。村人たちが総出で捜索すると、彼は山中の古い祠の前に膝をついて座っていた。

「おまえ……誰だ?」

村の長老・佐々木翁が声をかけると、陽一はゆっくりと顔を上げた。その顔は、陽一ではなかった。

「俺は陽一じゃない。……“佐村”だ」

村人たちは震え上がった。「佐村」とは、明治時代に村人を殺し、自らも山中で行方を絶った殺人鬼の名だった。

その日を境に、陽一の言動は激変した。

「村の水が汚されている、誰かが毒を入れている」
「夜中に壁の中から笑い声がするんだ……」
「母さんはもう、俺の母じゃない。別の顔をしてる……」

村の医者・中井先生は精神疾患を疑い、陽一を診察したが、脳にも神経にも異常は見つからなかった。だが、陽一の“別人格”は日に日に鮮明になっていった。

ある晩、陽一は母親に刃物を向けた。幸いにも怪我はなかったが、その夜、彼は家から姿を消した。

——三日後。

村の祠の前で、陽一は再び発見された。しかし今回は、祠の扉が開いており、内部には無数の紙人形と髪の毛が散らばっていた。

「俺の中にいる奴が……出てこようとしてる……もう、抑えられない」

彼はそう呟くと、自らの胸を刃物で刺そうとした。

「やめろ陽一!!」

駆けつけた父親が彼を止めたが、その瞬間、陽一の表情が歪んだ。まるで異なる何かが、顔の中から浮かび上がるかのように。

「——もうすぐ、皆にもわかる。俺の“中”にあるものが、村全体に広がる……」

陽一はその場で意識を失い、病院に運ばれた。

その後、村では奇妙な出来事が続発した。

・夜中に複数人が「誰かの声がする」と訴えた
・突然発狂し、家族を襲う者が現れた
・神社の絵馬に「わたしは誰?」と書かれたものが大量に吊るされた

そして、祠のある山道に近づいた者たちは、皆同じ夢を見るようになったという。

——赤い月の下で、陽一がこちらを見て笑っている夢。

その目は、もはや人間のものではなかった。

村を訪れた心理学者・椎名博士は、その現象を「集団性解離」と呼んだ。ある一人の精神的な崩壊が、閉鎖的な環境の中で他者に“感染”し、幻想と現実の境界を溶かしていく現象であると。

「精神は“ひとつ”ではない。そこには無数の“他人”が潜んでいる可能性がある。そして、それはある環境下で表に出てくる」

椎名博士は記録を残し、村を去ったが、その半年後、彼自身も失踪した。

彼の研究室には、一冊の日記が残されていた。

『夢を見た。あの祠の中で、陽一が私の声を真似て笑っていた』

——しかし、それで終わりではなかった。

令和の現在、都市部で精神分裂症と診断される若者たちの中に、「神久村」という言葉を口にする者が現れ始めた。彼らは皆、村に行ったことはないという。だが、全員が同じ描写を語るのだ。

「赤い月と、白い祠。そして、笑う男」

精神病棟の記録には、ある一人の患者がこう記していた。

『私は陽一だった。いや、“陽一の中の誰か”だった。今度は、誰の中にいるんだろう?』

——現実と幻想の境界が曖昧になる時、人の精神は“自分”を失う。だが、それは病ではないのかもしれない。

それは、誰かが“入ってくる”ことへの準備にすぎないのだ。

精神分裂の恐怖の教訓:
人の心は閉ざされた扉。その扉の奥に何があるか、自分でも知らない。だが、誰かがそれを開けようとすれば……そこから“何か”が出てくるのだ。

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