彷徨える霊魂
彷徨える霊魂:山村に取り憑く魂の叫び
秋の夕暮れ、長野県のとある山奥にある廃村「椿村(つばきむら)」に、一人の青年が足を踏み入れた。名前は結城翔太(ゆうきしょうた)、民俗学を学ぶ大学生であり、古い伝承や失われた儀式に強い興味を持っていた。
「この村、地図には載ってないけど、昔は百人以上住んでいたらしいんだ」
そう言いながら、翔太は手帳を開いた。
椿村は昭和の終わりに忽然と姿を消した村として、一部の民俗学者の間では有名だった。住民全員がある日突然いなくなったという奇怪な事件の記録がわずかに残っていた。翔太は、その真相を突き止めようと調査に乗り出したのだった。
村に着いた時、すでに陽は傾き、霧が辺りを包んでいた。古びた鳥居、崩れかけた家々、そして誰もいないはずの村に響く、微かな足音。
「……誰かいるのか?」
翔太が呼びかけても返事はない。ただ、風が吹いたかと思えば、女のすすり泣く声のような音が耳元をかすめた。
彼は村の中央にある古い祠に向かった。そこで「彷徨える霊魂」の伝承が記されているという石碑を見つけた。
《村に背いた者、死してなお彷徨う。
霊は帰る場所を知らず、魂は解き放たれぬまま
夜毎、祠にて名を呼び、彷徨い続ける》
その時だった。背後から、誰かの声がした。
「……わたしの、なまえ……」
翔太が振り返ると、そこには白い着物を着た少女の霊が立っていた。顔は青白く、目は涙で濡れている。
「あなた……名前を、覚えていてくれる……?」
翔太は息を呑んだ。
「き、君は誰なんだ? ここに……なぜ?」
少女は首を傾げるようにして言った。
「わたし……名前を忘れたの。家も、家族も、何もかも。ずっと、ここを歩いてる」
霊はこの村に囚われ、成仏できずにいる“彷徨える魂”だった。翔太は恐怖と同時に、彼女を救いたいという思いに駆られた。
「何か手がかりはないのか? 昔の記録とか……墓石とか……」
少女は静かに祠を指さした。
「中に、私たちの名前が書かれてる……でも、見つけた人は、皆……連れていかれる」
「連れていかれる? 誰に?」
翔太が問うと、少女は震える声で答えた。
「黒い影……霊魂を集めて、喰らう者。魂を縛りつけ、この村を永遠に彷徨わせる主(あるじ)」
翔太は意を決して祠の扉を開けた。中には大量の古文書や、供物が朽ちたまま積み重なっていた。そして、奥に黒ずんだ名簿が見つかった。
名簿には、村人たちの名前と、その横に赤い印が付けられていた。
全員……死亡、と書かれていた。
「これが……村の記録……?」
その瞬間、祠の奥から黒い霧が溢れ出し、翔太の体を包み込んだ。
『よくぞ……来た……生者よ……』
それは人ではない、何百もの魂が重なったような異様な声だった。
『名を呼ぶな。記憶を戻すな。魂はここに、永遠に囚われよ』
翔太は叫んだ。
「違う! 彼女たちは解放されるべきだ! お前のために彷徨っているんじゃない!」
祠の外では、少女の霊が膝を抱えて震えていた。だが、翔太の声に応じて、周囲にいた他の霊たちが集まり始めた。
老女、子供、若い夫婦。皆、何かを思い出すように顔を上げていく。
翔太は必死に名簿を読み上げた。
「……遠山光子、加藤修司、斉藤美和……お前たちの名前だ。帰るべき場所がある。思い出してくれ!」
その時、空が唸り、黒い霧が絶叫のような音とともに砕け散った。
少女は涙を流しながら笑った。
「ありがとう……私、思い出した……名前は、鈴(すず)。椿鈴。お兄ちゃんがいたの……」
彼女は翔太に近づき、微笑んだ。
「これで、やっと行ける……」
翔太の目の前で、鈴は光に包まれて消えた。そして、周囲にいた霊たちも一人、また一人と静かに昇っていった。
黒い影は消え、祠は崩れ、霧も晴れていった。
翔太は村を後にし、大学へ戻った。報告書にはこう記した。
「彷徨える霊魂とは、記憶と名を失った魂であり、名を呼ばれた時、初めて救済される。人が人を忘れない限り、魂は道を見つける」
だが、彼は時折夢を見る。霧の中で、鈴が手を振っている夢。
――ありがとう、お兄ちゃん――
そう、彼女が最後に呼んだのは、かつて行方不明になった兄の名だった。
翔太の中で、何かが引っかかっていた。もしかして、自分は……。
帰京後、彼は戸籍や家族の記録を確認した。だが、どこを調べても“結城翔太”という名は存在しなかった。彼の大学の履修記録も、教授の記憶も、すべてが空白だった。
唯一残っていたのは、手元の手帳と、村の写真数枚だけ。
「……まさか、俺も……」
彼は真実に近づきすぎて、現世との繋がりを断たれたのかもしれない。
それでも翔太は、今日も日本各地の伝承を辿って歩いている。
誰かに名を呼ばれる日まで、自分が何者であるかを取り戻すために。
そして、また一つの村で彼は出会う。
名を忘れ、彷徨い続ける魂たちと――。

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