人形の視線

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人形の視線

人形の視線

「やめたほうがいいよ、あの家は……。」
駅前の古びた喫茶店で、地元の老人がぼそりとつぶやいた。
私は苦笑いを浮かべながら、手にした地図を折りたたんだ。

「心配してくれてありがとうございます。でも、取材なので。」
私は雑誌の記者だった。廃墟特集のため、山奥にある『白川家』という古民家を訪れる予定だった。

夕暮れが迫る中、私は狭い山道を車で進んだ。
木々に覆われた道を抜けると、ぽつんと佇む一軒家が現れた。
赤く錆びた屋根、崩れかけた縁側、そして、ひび割れた窓の奥から、何かがこちらを見ているような錯覚。

「気のせい、だよね。」
自分に言い聞かせながら玄関へ向かった。

ギィ……。
重たい扉を押し開けると、冷たい空気が流れ出した。

中は意外にも整理されていた。埃っぽさはあるものの、家具は整然と並び、壁には色褪せた家族写真が掛かっていた。
そして、リビングの隅。そこに、ぽつんと一体の日本人形が座っていた。

白粉を塗ったような白い顔、黒く光る瞳、艶やかな黒髪、そして緋色の着物。
どこか誇らしげなその表情が、異様に生々しく感じられた。

「この家の……守り神、かな?」
私は軽く写真を撮った。フラッシュの光に一瞬、人形が瞬きしたように見えた。
心臓が跳ねる。

「気のせい、気のせい……。」
深呼吸して、他の部屋を調べ始めた。

台所には、使い古された包丁が無造作に転がっていた。
二階へ続く階段は、きしむ音を立てながら私の重みを受け止めた。

二階には子供部屋があった。
散乱する絵本、古びた玩具、そして――壁一面に貼られた無数の人形の絵。
目が、すべてこちらを向いている。

ぞくりと背筋が凍る。
何気なく窓に目をやったその時だった。

リビングの人形が、玄関の方に向かって移動していた。

「え……?」
目を疑った。
確かに、あの人形はリビングの隅にいたはずだ。
しかし今、明らかに位置が変わっている。

カタリ――。
背後から何かが床を転がる音がした。
振り返ると、子供用の木馬が、勝手に揺れていた。

「誰か、いるの……?」
震える声で呼びかけたが、返事はない。

私は逃げるように階段を駆け下りた。
しかしリビングに着いた瞬間、息を呑んだ。

人形が、玄関の正面に立っていた。
そして――ほんのわずかに、口元を吊り上げたように見えた。

「嘘でしょ……。」
足がすくみ、動けない。
その時、家中の扉がバンッと同時に閉まった。

カタ、カタ、カタ。
人形が、一歩一歩、こちらへと近づいてくる。

「やめろ……来るなっ……!」
私は必死で叫んだ。しかし声はかすれて、空気に溶けた。

視線が合う。
まるで、生きている人間と見つめ合っているかのような、異様な圧迫感。

――視線を外したら、終わりだ。

本能が警鐘を鳴らす。
私は後ずさりながら、なんとかカメラを構えた。

「やめてっ……!」
フラッシュが光る。

一瞬、視界が真っ白になった。
次の瞬間、そこにいたはずの人形が、消えていた。

「……いない。」
安堵したのも束の間、背後から小さな気配を感じた。

――すぐ後ろに、
小さな手が、私の服の裾を掴んでいた。

「帰さない……。」
少女のか細い声が耳元に響いた。

振り向く勇気もない。
だが、何かを感じた。
そこには、もはや人形ではなく、少女そのものが立っているのだと。

私は必死に服を振りほどき、玄関へと駆け出した。
扉は固く閉ざされ、開かない。
必死でドアノブを回す。
だが背後から、確実に何かが近づいてくる気配。

「開けぇぇぇっ!!」
絶叫と同時に、扉がギィと音を立ててわずかに開いた。
私は体ごと外へ飛び出し、転げ落ちた。

山道を転がりながら、振り返った。

家の玄関には、あの人形が、ただじっとこちらを見つめていた。
微動だにせず、しかし確かに、私を見送るかのように。

――もう、二度と近づくな。

そんな無言の警告を感じた。
私は震える体を引きずりながら、車へと這うように戻った。
エンジンをかけ、急いでその場を離れる。

バックミラーに映る家。
その窓には、赤い着物を着た小さな影が、いつまでも私を見つめ続けていた。

帰宅後、私は撮った写真を確認した。
しかし――リビングの写真には、人形は一体も写っていなかった。

代わりに、そこには、

――にやりと笑う、無数の子供たちの顔が写っていた。

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