日本の怪奇譚

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日本の怪奇譚

日本の怪奇譚:山中の呼び声

深い山奥、木々に覆われた静かな村「鷹見村」。そこは、古くから奇妙な噂が絶えなかった。
「夜中に山に入ると、誰かに呼ばれる」というのだ。

高校三年生の佐藤翔太は、都会育ちだったが、夏休みに祖父母の家がある鷹見村を訪れることになった。

「翔太、夜には絶対に外へ出るんじゃないよ。」
祖母の言葉に、翔太は苦笑いを浮かべた。
「大丈夫だよ、ばあちゃん。幽霊なんて信じてないから。」

その夜、村の静寂に包まれた中、翔太はふと目を覚ました。
外から、かすかに声が聞こえる。

「翔太……翔太……こっちへおいで……」

「……え?」
寝ぼけた頭で耳を澄ませると、確かに自分の名前を呼んでいる。しかも、母親にそっくりな声だ。

「お母さん……?」
窓の外を見ると、山の方角にぼんやりと人影が見えた。
無意識のうちに、翔太はドアを開けて外へ出てしまった。

「翔太……早く……」
呼び声に導かれるように、翔太は暗い山道を進んだ。
空には月がぼんやりと浮かび、周囲は深い闇に包まれている。

どれだけ歩いたのだろうか。気がつくと、翔太は見知らぬ祠の前に立っていた。

「ここ……どこだ?」

その時だった。背後から、足音が聞こえた。
振り向くと、そこには白い着物を着た女が立っていた。
顔は影に隠れて見えない。

「翔太……帰れないよ……」

ゾクリと背筋が凍る。
「だ、誰だよ!」
翔太は叫んだが、女は静かに近づいてくる。
足音はまるで地を滑るようだった。

恐怖にかられた翔太は、山道を必死に駆け出した。
後ろからは、あの女の足音が追いかけてくる。

「助けて……誰か……!」

そのとき、不意に足を滑らせ、翔太は斜面を転げ落ちた。
目の前が真っ暗になった。



気がつくと、翔太は祖父母の家の布団の中にいた。
顔を覗き込む祖母と祖父の姿があった。

「翔太、よかった……!」
「ばあちゃん……じいちゃん……俺……」
翔太は震える声で、山で起きた出来事を語った。

祖父は重い口を開いた。
「あの山にはな、昔、戦で命を落とした者たちの怨念が今も彷徨っているんだ。夜中に呼び声に応えたら、魂を連れて行かれると言われている。」

「じゃあ、あの女も……?」

祖母が涙を浮かべながら語った。
「あれは、息子を探して山で命を落とした母親の霊だよ。あなたを息子と間違えたんだろうね……。」

翔太は震えた。もし、あのまま呼び声に従っていたら、もうこの世に戻れなかったかもしれない。



数日後、翔太は村の神社にお参りに行った。
「二度と夜に出歩かないから……」
そう誓って、深く頭を下げた。

帰り道、ふと背後から囁き声が聞こえた。

「翔太……こっちへおいで……」

血の気が引いた。
慌てて振り向くと、そこには誰もいなかった。
だが、翔太は確かに感じた。あの冷たい視線と、氷のような手がすぐそこにあることを――。

彼は必死に走り出した。
どれだけ走っても、その気配は背後にぴったりとついてきた。

「助けて……」

必死の叫びも虚しく、翔太は足を取られて倒れた。
地面に顔を押し付けられたその瞬間、耳元で聞こえたのは、あの女のすすり泣く声だった。

「どうして……置いていくの……?」

それ以降、翔太は一人で夜に外を歩くことができなくなった。
どこへ行っても、夜になると必ずあの声が聞こえてくるのだった。

「翔太……一緒に行こう……」

永遠に、あの声から逃れることはできない。
――これが、鷹見村に伝わる「山中の呼び声」の正体だった。



そして、さらに恐ろしい事実を翔太は知ることになる。

村の図書館で古い記録を調べた翔太は、驚くべき記述を見つけた。
『昭和二十二年、鷹見村で行方不明者続出。深夜、山中で呼び声に誘われた者が帰らぬ人となる。』
そこには、行方不明になった人々の名前と写真が載っていた。

驚愕したことに、その中に祖父の弟の名前もあった。

「……じいちゃんの弟……?」

翔太は祖父に問い詰めた。
祖父は沈痛な表情で答えた。
「ああ……俺の弟も、あの夜、呼び声に誘われて……二度と戻らなかった。」

翔太は身震いした。
もしかすると、あの白い着物の女の背後には、無数の連れて行かれた魂が潜んでいるのではないか。



翌晩、翔太は夢を見た。
暗い森の中、白い影たちが手招きしている。
無数の声が耳元で囁く。

「翔太……こっちへおいで……一緒にいよう……」

目を覚ますと、額には冷たい汗がにじんでいた。
だが、部屋の中には妙な冷気が漂っていた。

「まさか……夢じゃない?」

恐る恐る窓の外を見ると、そこには、白い着物をまとった女と、無数の顔のない影が立っていた。

「うわあああああっ!」
翔太は叫び、祖父母の部屋へ飛び込んだ。

祖父は厳しい表情で言った。
「もう……覚悟を決めなきゃならんかもしれんな。」

「えっ……どういうこと?」

祖母が震える声で答えた。
「あの霊たちは、翔太を選んだんだよ……。」

それはつまり、翔太が「山の犠牲」として選ばれてしまったということだった。



翌日、村の古老たちが集められ、密かに儀式の準備が始まった。
村に伝わる封印の儀式、「鎮めの祭」。

「翔太、お前には辛いかもしれんが、これしかないんだ。」
祖父の言葉に、翔太は震えながら頷いた。

夜、山奥の祠に向かう翔太の手には、特別な護符が握られていた。
老僧が唱える呪文の中、翔太は祠の中へと進んだ。

そして、再び、あの声が響く。

「翔太……一緒に……」

翔太は護符を掲げ、大声で叫んだ。

「俺は行かない!俺は生きる!」

瞬間、激しい風が吹き荒れ、白い着物の女と無数の影が悲鳴を上げながら消えていった。



それ以来、翔太の周りに奇怪な現象は起きなくなった。
だが、祠の前に立つと、いまだにかすかに耳元で声がする。

「翔太……いつか……」

――それは、決して終わったわけではなかった。
この村には、今もなお、山中に消えた者たちの声が響き続けているのだから。

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