明治時代の影

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明治時代の影

明治時代の影:忘れられた町の恐怖

明治三十五年、山陰地方のある小さな町「鷺村(さぎむら)」では、不気味な噂が囁かれていた。ある家に近づくと、夜ごとにすすり泣く女の声が聞こえるという。その家はすでに十年以上も空き家であり、村人は誰一人として近づこうとしなかった。

東京から来た若き記者、村岡誠一(むらおか せいいち)は、その噂を新聞の特集記事にするため、鷺村を訪れることにした。

「おい、誠一、本当にあんな田舎に行くのか?冗談じゃないぞ。明治も三十五年だ、そんな怪談話、信じるなよ。」
友人の竹内が言ったが、誠一は静かに頷いた。
「記事にできるなら、どんな話でも追うさ。それが記者というものだろ。」

鷺村に着いた誠一は、村人たちの様子が異様に怯えていることに気づいた。道を尋ねても目を逸らし、必要以上のことは決して語らない。そして、問題の家——白木の屋敷にたどり着いたとき、村人の老婆が彼を呼び止めた。

「若いの、お前さん、あそこに入るつもりかい?」
「ええ、取材でして……あの家には何かあるんですか?」
「……あれは影の家だ。入れば、お前も“向こう”に引きずり込まれるよ。」
老婆の目は濁り、何かに取り憑かれているようだった。

だが誠一は、夜を待って屋敷に足を踏み入れた。入り口は意外にも開いており、内部には埃の積もった家具と、崩れかけた屏風があるだけだった。だが、彼が奥の座敷へ進んだ時——

「う、うわっ……誰だ!?」
襖の向こうから、明らかに人の気配がした。声をかけるも返事はない。誠一が震える手で襖を開けると、そこには……

白無垢の女が正座していた。顔は見えず、髪が床まで垂れている。女は静かに立ち上がり、誠一の方に顔を向け——
それは、人間ではなかった。

女の顔には目がなく、ただの影のような窪みがあるだけだった。唇は裂け、血のような黒い液体が滴り落ちている。

「……みて……かえして……あのときの……」
女の声は風のように囁き、誠一の頭の中に直接響いた。

慌てて屋敷を飛び出した誠一は、村の寺に駆け込んだ。
「住職!あの屋敷には何かいます!説明してください!」

住職は静かに語り始めた。
「あの屋敷には、かつて庄屋の家族が住んでおった。だが、明治の初め、ある大火で一家全員が焼け死んだ……いや、焼かれたのだ。村人の手でな。」

「どうしてそんなことを……?」
「庄屋の娘が妖しき力を持ち、村に災いをもたらすと信じられていた。村人は恐れ、彼女を生きたまま……」
住職は口をつぐんだ。

誠一は真実を記事にしようと決意したが、その夜から彼の周囲に異変が起きる。夢の中に現れる白無垢の女。どこからともなく響くすすり泣き。

ある夜、彼は寝室で目を覚ますと、部屋の隅に“影”が立っていた。
「……かえして……」
その声に、彼の意識は闇に沈んだ。

翌朝、誠一の姿は消えていた。机の上には、書きかけの記事原稿と、最後に書かれた一文が残されていた。
『影は、まだそこにいる』

それ以降、誰も白木の屋敷には近づかない。そして今でも、夜になると——村のどこかから、女のすすり泣く声が聞こえてくるという。
「……みて……かえして……」

数年後、東京の新聞社には奇妙な封筒が届いた。中には古びた写真が一枚と、手書きの手紙が入っていた。写真には白木の屋敷が写っていたが、その窓辺に白無垢の女が立っていた。

手紙にはこう記されていた:
「私の名は村岡誠一。生きているのか死んでいるのかも分からぬ。ただ、あの女は……まだ私の傍にいる。」

記者仲間の竹内は震える手でその写真を見つめた。彼は当時、誠一を止めるべきだったと後悔していた。
「あいつは……あの村で何を見たんだ……?」

竹内は真相を確かめるため、鷺村へと向かった。村は以前にも増して寂れており、住人もまばらだった。
「白木の屋敷?ああ、もう誰も行かないさ。たまに、夜に女の影が窓に映るって話だけが残っとる。」
そう語る村人の目には、諦めと恐怖が宿っていた。

竹内が屋敷に足を踏み入れたその夜——彼は姿を消した。残されたのは彼の手帳だけであり、最後のページにはこう書かれていた。
『彼女は、誠一を待っていた。そして、今度は私を選んだ』

影は語らない。ただ、見つめ、囁き、連れていく。
明治時代に始まった怨念は、今もなお、時を越えて生き続けている。

もしあなたが鷺村を訪れ、夜道を歩くことがあれば——ふと後ろを振り返ってみてほしい。
そこに、白無垢の女が立っているかもしれない。

「……みて……かえして……」
その声が聞こえた時、あなたはもう——戻れない。

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