暗闇の視線
暗闇の視線
東京の外れにある小さな町、冬の終わりに差し掛かった頃、深夜になると決まって「視線」を感じると噂される古びたアパートがあった。
主人公の美咲(みさき)は、都心から引っ越してきたばかりの大学生だった。家賃の安さと駅からの近さに惹かれて、何の疑いもなくそのアパートに住むことを決めた。
「この部屋、思ったより広いし、ラッキーかも」
そう呟きながら、彼女は段ボールを一つずつ開けていった。
だが、その夜から異変は始まった。
夜の十一時を過ぎた頃、電気を消してベッドに入ると、どこからともなく「じぃっ……」と視線を感じるのだった。
――気のせいだよね。
そう自分に言い聞かせて眠ろうとするが、背中に突き刺さるような圧が抜けない。
翌朝、美咲はコンビニでバイト先の先輩・裕樹(ゆうき)にその話をした。
「最近、引っ越したばかりなんですけど、なんか夜になると誰かに見られてる気がして…」
「え? どこ引っ越したの?」
「○○町の『青木荘』っていうアパートです」
「……マジかよ。あそこ、やばいって有名だぞ」
裕樹の顔が青ざめたのを見て、美咲の胸に不安が広がった。
「な、なにかあったんですか?」
「3年前に住人の女性が失踪してさ。それ以来、その部屋だけ家賃が異様に安くて、でも借りる人はみんな長続きしないんだって」
夜、美咲は部屋を注意深く観察しながら過ごした。天井、窓、ドアの隙間。カーテンを閉めても、その向こうから「何か」が見ているような気配が消えない。
その日から、決して消えない「視線」は日増しに強くなっていった。風もないのにカーテンが揺れ、玄関のドアノブがわずかに動く。
そしてある晩、決定的なことが起こる。
夜中の二時、美咲が目を覚ますと、部屋の隅に何かが立っていた。
「……誰?」
声を絞り出したが、それは応えず、ただじっと彼女を見つめていた。
その姿は、髪が長く、顔がまったく見えない女のようだった。
「いや……出てって……!」
部屋の灯りをつけた瞬間、それは消えていた。だが、視線の感覚はより鮮明になっていた。
翌日、美咲はアパートの大家に事情を話した。
「……ああ、あの部屋ね。前の住人も、あんたと同じこと言ってたよ」
「その人、今は?」
「失踪したままさ。警察も調べたけど手がかりなし。まるで闇に溶けたみたいに」
美咲は迷った末、部屋に設置していた古い鏡を外してみることにした。すると、鏡の裏に奇妙な穴があった。覗いてみると、隣の部屋との壁に小さな覗き窓のようなものが……。
「まさか、ずっとここから……?」
そう考えた瞬間、鏡の穴の奥から「カタ……カタ……」という音が鳴った。
恐怖のあまり後ずさりした美咲は、スマホでその穴を撮影することにした。
撮影後、スマホの画面を見ると、そこには穴の奥から覗く血走った目が映っていた。
「うそ……なんで……!」
その瞬間、スマホの画面が真っ黒になり、耳元で誰かが囁いた。
「見つけた……」
叫び声を上げて部屋を飛び出す美咲。だが、アパートの外は濃い霧に包まれ、出口がどこにあるのかすら分からなくなっていた。
「お願い、出して……助けて……!」
霧の中から現れたのは、あの女だった。髪の隙間から覗く顔は、目も鼻も口もなく、ただ真っ黒な穴のようだった。
その口が開き、低い声が響く。
「ここは……あなたの家じゃない」
美咲が気を失ったのはその直後だった。
翌朝、コンビニの裏路地で倒れていた美咲は通行人によって発見された。
病院で目を覚ました彼女は、あの夜の記憶を断片的にしか思い出せなかったが、「視線」は感じなくなっていた。
その後、美咲はすぐに引っ越した。
そして『青木荘』の203号室は、再び誰も借り手がつかぬまま、静かに時間を飲み込んでいく。
だが、ある不動産サイトには、未だにその部屋が「好条件・女性向け物件」として掲載されているという。
――今日もまた、新しい住人が「視線」を感じ始めているかもしれない。
***
数週間後、ある大学生の男性・直人(なおと)が『青木荘』に引っ越してきた。彼はオカルトには無関心で、安ければどこでもいいと考えるタイプだった。
「どうせただの噂でしょ。霊なんていないって」
そう言いながら、荷物を運び込んだその夜。直人もまた、同じように視線を感じ始めた。
彼の目に、クローゼットの奥で何かが動いたように見えた。
「……誰かいるのか?」
扉を開けると、何もない。だが、奥の壁に誰かの指で引っ掻いたような「目」の形が彫られていた。
「なんだこれ……」
その日を境に、直人も夜眠れなくなり、次第に顔色が悪くなっていった。バイト先の同僚が心配しても、彼は笑ってごまかしていたが、その目は明らかに何かに怯えていた。
そしてある日、彼もまた忽然と姿を消した。部屋には誰もいないはずの「足跡」と、鏡の中に映るはずのない“もう一人の顔”だけが残されていた。
『青木荘』の203号室には、もう誰も近づこうとしない。
しかし、奇妙なことに、その部屋の電気は、いつも深夜になるとぽつりと灯るのだった。
まるで、誰かがそこに“帰ってきた”かのように。

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