古戦場の亡霊
古戦場の亡霊:封じられた戦場に響く怨念の声
静岡県の山奥に「血塗られた丘」と呼ばれる場所がある。地元ではあまり知られていないが、戦国時代に壮絶な合戦が繰り広げられ、多くの兵士が命を落とした古戦場である。正式な記録には残っていないが、語り継がれる話によると、その地には今でも戦死者たちの怨念が彷徨っているという。
大学で民俗学を専攻していた私は、卒業論文のためにこの古戦場を調査することにした。地元の図書館や神社の記録を調べ、ようやく現地へ赴くことを決めたのは、晩秋の肌寒い日のことだった。
「これが…“血塗られた丘”か…」
霧が立ち込め、太陽すら見えない午後。草木は乾ききっているのに、空気だけがどこか湿っていた。踏み入れるたびに、落ち葉の下から骨のように白くなった木の根が現れる。
「……誰かいるのか?」
誰もいないはずの林の奥から、甲冑のぶつかるような微かな音が聞こえた。音のする方へ足を進めると、古びた戦旗が朽ちた木に絡まっていた。
「うそだろ…? 何百年も前のもののはずなのに、こんなに…鮮明に?」
その時だった。
「戻れ……」
背後から低く、怒りを含んだ声が響いた。振り返ると、そこには黒い甲冑を纏い、顔全体にひび割れた能面を被った男が立っていた。足が地に着いておらず、彼の周囲の空気だけが凍てついているようだった。
「……お前は、生きている者か?」
声が直接脳に響くように届く。
「は、はい……私はただ、調査で……」
「調査? 貴様も、あの時の裏切り者の末裔か……!」
次の瞬間、甲冑の亡霊は私に向かって突進してきた。足が動かず、身体が硬直する中、私は懐から護符を取り出し、無我夢中で掲げた。
「やめてください! 私は敵ではありません!」
その言葉に、亡霊の動きが一瞬止まった。風が止み、静寂が場を支配する。
「敵では……ない、か。ならば、真実を聞け……そして、語り継げ……」
亡霊の目が、深い哀しみに染まっていた。彼は私に語り始めた。
――あの戦の日、我らの軍は味方に裏切られた。退却を命じた将軍は、敵に寝返り、味方を見捨てた。我らは包囲され、逃げ場なく、全滅した。その屍は積み重なり、血は地に染み込み、魂はこの地に縛られた。
「この丘に埋もれた者たちは……未だに戦い続けているのか?」
私は震える声で問うた。
「そうだ……夜になると、かつての戦が再び繰り広げられる。終わらぬ戦。果たせぬ忠義。憎しみと悔しさだけが、我らを縛る。」
風が強まり、落ち葉が空に舞い上がる。霧の中に、無数の影が見えた。槍を持つ者、刀を構える者、そして、両断された胴体を引きずる者まで。
「語り継げ、この地に起きた裏切りと無念を……それが、我らを解放する唯一の道……」
その言葉を最後に、甲冑の亡霊は霧の中へと消えた。
数時間後、気づけば私は丘のふもとで目を覚ましていた。あの出来事が夢だったのか、それとも現実だったのか……手には、朽ちた戦旗の切れ端が握られていた。
調査を終えて戻った私は、地元の資料館と協力し、この地に慰霊碑を建てる提案を行った。誰もが最初は首を傾げたが、次第に古老たちの間で語り継がれていた伝説と符号することが明らかになり、ようやくその提案が受け入れられた。
現在、「血塗られた丘」には小さな石碑が立ち、「戦士たちの魂に安らぎを」と刻まれている。それ以来、不思議なことに、夜な夜な聞こえていたという甲冑の音も止み、丘を覆っていた霧も、少しずつ薄れていったという。
しかし、それで全てが終わったわけではなかった。
半年後、地元のテレビ局がこの話を聞きつけ、特集番組として取り上げたいと申し出てきた。私は協力することになり、再びあの丘へ向かうことになった。取材クルーと共に現地へ赴いたその夜、我々は異様な現象に遭遇する。
照明を準備していたカメラマンが突然倒れ込み、何かに取り憑かれたかのように口走った。
「……忠義……果たせぬ……裏切り者……」
カメラが勝手に動き、空中を映し出すと、そこには無数の炎の玉が漂っていた。どれも人の顔をしており、苦悶の表情で呻いていた。
「やめろ、撮るな!」私は叫び、クルーに撤退を促した。
それ以降、私のもとには夜な夜な謎の電話がかかってくるようになった。受話器を取ると、ただ風の音と甲冑のぶつかる音だけが響く。声はないが、確かに誰かがそこにいる。あの丘で、語り継ぐと約束した私に、何かを訴えかけているかのようだった。
私は筆を取り、この出来事を一冊の書物としてまとめることにした。この話を、忘れられた英霊たちの叫びを、誰かが受け継ぎ、次代へ伝えるために。
そして今夜も、あの丘には霧が立ち込める。
もし、あなたがその地を訪れることがあれば、決して日が沈むまでいてはいけない。闇が訪れるとき、かつての戦場は蘇り、あなたもまた、その“戦”に巻き込まれるかもしれないのだから――。

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