背後の足音

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背後の足音

背後の足音

東京の片隅にある古びたアパート、「緑荘」。
家賃の安さに惹かれ、大学生の斎藤浩二(さいとうこうじ)はここに引っ越してきた。

「やっぱりちょっと古いな……。」
引っ越し当日、荷物を運び入れながら浩二はつぶやいた。

廊下は軋み、壁紙は剥がれかけ、空気には微かにカビの匂いが漂っていた。

しかし、大家の佐藤(さとう)さんは笑顔で言った。

「ここは昔から静かでねぇ。住めば都だよ。」

浩二も深く気に留めることなく、生活を始めた。

だが、引っ越してから数日後——
深夜、ベッドで本を読んでいると、奇妙な音が聞こえた。

「……コツ、コツ、コツ……。」

誰かが廊下を歩く音。
それも、自分の部屋のすぐ前まで近づいてくるような、そんな生々しい音だった。

浩二は耳を澄ませた。
だが、足音はドアの前でピタリと止まっただけで、それ以上は何も起こらなかった。

「……気のせいか?」

翌朝、大家に聞いてみたが、
「そんな時間に誰かが歩くはずないよ。ここ、あんたしかいないからねぇ。」

そう言われた。

その夜も、足音はやってきた。

「コツ、コツ、コツ……ピタ。」

浩二は怖くなり、ドアの穴から廊下を覗いた。
だが、誰もいない。

「なんなんだよ……。」

そうしているうちに、別のことにも気づき始めた。

部屋の隅、特に暗い場所で、何かが動く気配。
鏡の奥に、こちらを見つめる影。
そして、確実に、自分の背後に存在する「何か」。

ある晩、友人の佐々木(ささき)を呼んで、泊まってもらうことにした。

「お前、幽霊とか信じてるのかよ。」
佐々木は笑いながら缶ビールを開けた。

「バカにすんなって……本当に聞こえるんだって!」
浩二は必死だった。

夜が更け、二人は布団を並べて眠りに就いた。
その時だった。

「……コツ、コツ、コツ……。」

「な、なあ佐々木、聞こえるだろ!?」

「……ああ、聞こえる……。」

佐々木の顔が青ざめていた。

足音はドアの前で止まり、今度はノック音が響いた。

「コン、コン、コン。」

二人は息を潜めた。

ノックの後、今度は——
ドアノブがガチャガチャと回された。

「やばい……!」

浩二は鍵を確認した。
確かに閉めたはずだった。

ドアノブの音はしばらく続き、やがて静かになった。

朝になり、佐々木は青い顔のまま帰っていった。

「悪い、もうここには来たくない……。」

その言葉を最後に、佐々木とは連絡が取れなくなった。

不安が募る中、浩二はアパートの歴史を調べ始めた。

すると、驚くべき事実が判明した。
この「緑荘」では、数年前に住人の女性が失踪していたのだ。

最後に目撃されたのは——
「夜中に、誰もいないはずの廊下を歩く足音を聞いた」と言った直後だったという。

「……まさか、あの足音って……。」

浩二は戦慄した。

数日後、部屋で荷物をまとめていると、背後に冷たい空気を感じた。

振り向くと、そこには、
長い黒髪に顔を隠し、白いワンピースを着た女が立っていた。

「だれか……いっしょに……。」

掠れた声で、女は囁いた。

「うわああああっ!!」

浩二は悲鳴を上げて部屋を飛び出した。
しかし、どこまで逃げても、
背後からは、あの「コツ、コツ、コツ」という足音が、ぴたりと追ってきた。

駅まで全力で走り、ようやく人混みに紛れることができた浩二は、振り返った。

そこには誰もいなかった。

安堵したのも束の間。

スマホの画面を確認すると、
カメラに、背後からじっとこちらを見つめる女の姿が写っていた。

「う、うそだろ……。」

震える手でスマホを落とした瞬間、
再び耳元で、あの足音が聞こえた。

「コツ、コツ、コツ……。」

振り向く勇気は、もう残っていなかった。

——それから数週間。
浩二は友人宅を転々としながら過ごした。
誰かと一緒にいれば、あの足音は聞こえなかった。

だが、ある夜。
友人の部屋で一人になった瞬間、また聞こえた。

「コツ、コツ、コツ……。」

部屋には自分しかいない。

「……まさか、ついてきたのか……?」

恐怖に震える中、スマホに通知が入った。
画面には「新しい写真があります」と表示されている。

震える手で確認すると、
そこには、浩二が眠るベッドのすぐ脇に立つ女の姿が、何枚も何枚も映っていた。

翌朝、友人に相談すると、
「悪霊って、気づいた人間に取り憑くって聞いたことがある……。」

という答えが返ってきた。

「気づかなければ……見なければ、助かるかもしれない。」

それ以来、浩二は絶対に後ろを振り向かないようにしている。

たとえ、背後で誰かが囁こうとも、
たとえ、肩を叩かれようとも、
絶対に、絶対に、振り向かない。

しかし。
その「音」は日に日に近くなっている。

今日も。
自室でパソコン作業をしていると、すぐ後ろから声が聞こえた。

「みて……。」

冷たい気配と共に、確かに肩に手が置かれる。

震える手で目を閉じ、必死に耐えていると、
ふいに部屋の電気がバチッと消えた。

真っ暗闇の中、
耳元に、囁き声が迫る。

「……みつけた。」

——その瞬間、浩二の意識は途絶えた。

気づけば、見知らぬ暗い部屋に座っていた。

部屋の隅には、無数の女たちがうずくまり、すすり泣いている。

その中心に立っているのは、
あの白いワンピースの女だった。

「……ここで、いっしょに……。」

女は手を伸ばしてくる。

浩二は叫び声を上げたが、誰にも届かない。

こうして、浩二は「背後の世界」に連れ去られてしまった。

そして今夜も、「緑荘」の廊下には——
誰もいないはずの空間に、
「コツ、コツ、コツ」という足音だけが響き渡っている。

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