母の影

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母の影

母の影

私が生まれ育ったのは、山奥の集落「赤城村」。
この村では昔から、「夕暮れ時には鏡を見るな」という言い伝えがあった。理由を尋ねると、大人たちは決まってこう答えた。

「母の影が、戻ってくるからねぇ……」

私は幼い頃、それが何を意味するのか全くわからなかった。

——
その夜も、雨がしとしとと降っていた。私は十年ぶりに村に戻ってきた。母が他界してから、初めての帰郷だった。

実家には誰も住んでおらず、埃だらけだったが、どこか懐かしい。ふすまの向こう、畳の匂い、雨の音。全てが記憶を呼び覚ます。

だが、家の奥にある「母の部屋」だけは、幼い頃から私は近づけなかった。なぜなら、そこには大きな姿見があったからだ。

その鏡の前では、必ずといっていいほど「何かが起きた」。

——
「ねぇ、お母さん、あの鏡……怖い」
「怖がらなくていいの。あなたが見なければ、何も出てこないのよ」

母はそう言って、いつも鏡に白い布をかけていた。でも、ある日その布が落ちて、私は一瞬だけ見てしまったのだ。

鏡の中には、母ではない“誰か”が映っていた。髪は乱れ、顔がひどく歪んでいた。そして、私の名を低く呼んだ。

「……ユイ……」

——
「……ユイ、まだ起きてるのか?」

突然、玄関の方から父の声が聞こえたような気がした。だが、父は私が高校を卒業する前に他界している。

「……違う、気のせい。雨の音のせいだわ」

不安を抱えつつも、私は居間で横になった。だが、夜中の二時を過ぎたころ、廊下からゆっくりとした足音が聞こえてきた。

ギィ……ギィ……

昔から聞き慣れた、母の歩き方。私は思わず起き上がった。

「……お母さん……?」

ふすまの向こう、誰かが立っていた。ふすまには影が映っていた。

——それは、間違いなく母の影だった。

「……おかえりなさい、ユイ」

確かに、母の声がした。震える手でふすまを開けた。

……そこには、誰もいなかった。

——
次の日、私は思い切って母の部屋を開けた。埃っぽい空気の中に、あの鏡はまだあった。白い布がめくれかけていた。

「……あのときの影……母さんだったの?」

私はそっと布を取った。鏡に映る自分……だけではなかった。

私の後ろに、黒い人影が立っていた。

「……ユイ、どうして、戻ってきたの……」

私は振り返った。そこには誰もいない。だが、鏡の中には確かに“それ”が映っていた。

「わたしは……わたしは、ここにいたの。ずっと、ここに……」

影はゆっくりと、鏡の中から手を伸ばしてきた。私は後ずさりしながら叫んだ。

「やめて!!」

その瞬間、鏡がバリッと音を立ててひび割れた。

——
気がつくと、私は居間で倒れていた。

「夢……?」

だが、母の部屋のふすまの前には、濡れた足跡が続いていた。

その夜から、私は毎晩「夢」の中で母に会うようになった。だが、その母はかつての優しい母ではなかった。

——
「ユイ……あなた、私を置いて行ったわね……」

夢の中の母は、怒りと悲しみに満ちた目で私を見つめていた。

「あなたが出て行ったあと、私は……ずっと、ここにいたのに……」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

私は何度も謝ったが、母の影は消えなかった。

——
そして数日後。

私は気づいた。鏡だけでなく、窓ガラス、スマホの画面、電車のドア……どこにでも“あの影”が映り込むようになっていた。

最初は一瞬だけだった。でも次第に長く、そして近く……

ある夜、スマホの画面に母の顔が映った。私は慌てて画面を伏せた。だが、その背後から、冷たい声が響いた。

「どこを見ても、私はそこにいるわよ、ユイ……」

——
今、私は鏡のないアパートに引っ越している。だが、どれだけ避けても、母の影は私のすぐそばにいる。

夜、電気を消すと——

部屋の隅に“あの影”が立っているのが見えるのだ。

私の名を呼びながら、母はずっと待ち続けている。

「ユイ、あなたもこっちに来て。一緒にいましょう……永遠に」

私が最後に笑ったのは、いつだっただろう。

——だからお願い。

もしあなたの家にも古い鏡があるなら、どうか夕暮れ時には見ないでほしい。

その鏡に、母の影が映る前に。

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