地下鉄の悪夢

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地下鉄の悪夢

地下鉄の悪夢

「終電、間に合うかな……」
夜11時50分。私は都内の広告代理店で残業を終え、新宿駅のホームに立っていた。
地下鉄の空気はどこか湿っていて、少し酸っぱい臭いがした。

「次の列車は回送です。ご乗車にならないでください」
駅のアナウンスが響いたが、ホームには私以外にも数人、スーツ姿のサラリーマンやカップルが立っていた。

数分後、回送と表示された電車が静かにホームへ滑り込んできた。だが、その車内には誰もいないはずなのに……

「え……今、中に誰かいた……?」

私は一瞬、車内に座る白い服の女を見た気がした。だが、電車は扉を開けることなく、すぐに発車していった。

その瞬間、背筋に寒気が走った。

——なんか変だ。

「お待たせしました。次の電車がまいります」
ようやく終電がやってきた。私は乗り込み、いつものように一番端の席に腰を下ろした。車内はがらんとしていて、静かすぎた。

電車が動き出してすぐ、私はスマホを取り出してニュースアプリを眺めていた。
その時だった。

——パチッ……

蛍光灯が一瞬だけ明滅し、車内が暗くなった。すぐに戻ったが、私は確かに見た。

向かいの席に、誰かが“現れた”のを。

「……」
その人物は真っ黒なスーツを着て、顔が異様に長かった。目は見開いたままで、口は笑っていたように見えた。

私はスマホを見ているふりをして、その人から目を逸らした。だが、次の瞬間、背筋にぞわりとした感覚が走った。

「……乗ってはいけない電車に、乗ってしまったのかも……」

——
車内アナウンスが流れた。

「次は……カミシダ駅……カミシダ……」

「え?そんな駅、聞いたことない……」
私は慌ててスマホで検索した。しかし、どこにも“カミシダ駅”なんて存在しない。

「おいおい……嘘でしょ……」

ふと顔を上げると、車内の他の座席にも人が座っていた。さっきまで私とその不気味な男しかいなかったのに、いつの間に?

彼らは皆、うつむいていて、顔が見えなかった。服装はバラバラだが、どこか共通している。

——みんな、色がない。

服も顔も髪も、白黒の写真のようだった。まるで、既にこの世のものではないように。

私は立ち上がり、隣の車両へ移ろうとした。扉のボタンを押したが、開かない。

ガン!ガン!
私は扉を叩いた。だが、その時後ろから、声がした。

「逃げても、もう遅いよ」

振り向くと、あの黒いスーツの男が目の前にいた。

「あなたも、連れて行く……ここは“帰れない電車”だから」

私は思わず叫び、足元に転んだ。

——目を覚ませ、これは夢だ。そう思った。

だが、車内の窓の外に見えたのは、トンネルではなく、何か歪んだ世界だった。
赤い空、揺れる黒い影、天井から逆さまに吊るされた人影。

「うそ……やだ、やだやだやだ!」

私はスマホを取り出し、119に電話をかけようとした。だが、画面にはただひとこと——

「帰れない」

——
その後のことは、断片的にしか覚えていない。

「次は……新宿……新宿……」
いつものアナウンスが聞こえた。目を開けると、私はさっきと同じホームにいた。

「……戻ってきた?」

終電の車両は私を置いて、静かに去っていった。だが、私は立ち尽くしたまま動けなかった。

ホームのガラスに、自分の後ろに立つ黒い人影が、映っていたからだ。

「……見えてるんでしょ、ユウカ」

声が耳元で囁かれた。その瞬間、私の記憶が一気に蘇った。

——そうだ、昔も一度、私はこの“回送電車”に乗ってしまったことがある。

そして、その時、誰かが消えた。

高校の同級生だった「水野ユウスケ」。彼は、ある日突然行方不明になった。最後に目撃されたのは、新宿駅の終電ホームだった。

「“カミシダ駅”で降りたんだよ、あいつ」
昔、酔っ払った同級生がふざけてそう言っていたのを思い出した。

でも、今ならわかる。あれは冗談なんかじゃなかった。

——彼は、本当に“あの電車”に乗って、戻ってこなかったのだ。

私は震える手でスマホを開いた。写真フォルダの一番上に、知らない画像が追加されていた。

そこには、さっきの車内の風景と、私の隣に座る黒いスーツの男が映っていた。

「これは……何……?」

写真を閉じようとしたその瞬間、画面が真っ黒になり、またあの言葉が浮かび上がった。

「帰れない」

——
それから私は地下鉄に乗るのが怖くなった。仕事も辞め、地方に引っ越した。

だがある日、駅のホームで見かけたポスターに、思わず足が止まった。

「迷い人を探しています。2023年12月30日、新宿駅で目撃」

その顔は、私だった。

「どういうこと……私、帰ってきたはず……」

スマホを開くと、待ち受け画面がいつの間にか変わっていた。
そこには、歪んだカミシダ駅のホームと、無人の電車が止まっていた。

——もしかして、まだ私は“戻れていない”のではないか。

もし、あなたが夜の地下鉄で「カミシダ駅」というアナウンスを聞いたなら、絶対に降りてはいけない。

そして何より……その電車に、乗ってはいけない。

——
数日後。私は実家に戻ってからも、毎晩のように同じ悪夢を見るようになった。

終電に乗り込む自分。
無人の車両。
“カミシダ駅”と呼ばれる存在しない駅。
そして、黒いスーツの男が笑いながら近づいてくる夢——

朝になると全身が冷や汗で濡れており、スマホには知らない写真が勝手に保存されていた。
中には、カメラを向けた覚えのない“車内の自分”が、虚ろな目でこちらを見ているものもあった。

——これは、夢なんかじゃない。

「ねぇ、カミシダ駅って、本当に存在しないの?」
ある日、図書館で昔の路線図を調べていた私は、隣で新聞を読んでいた老人に声をかけた。

老人は新聞から顔を上げ、しばらく黙ったあと、ポツリと呟いた。

「昔……戦時中に“上信田(かみしだ)”という駅があったらしい。今は封鎖されてる」

「封鎖……ですか?」

「空襲で崩れたんだよ。多くの人が閉じ込められて、そのまま……」

私は背筋が凍るのを感じた。
その名前、カミシダ。発音は違えど、まさに夢の中で聞いた“カミシダ駅”そのものだった。

「その話、もっと教えてもらえますか?」

老人はしばらく黙っていたが、やがてポケットから古い手帳を取り出した。
そして、震える手でページを開き、1枚の写真を差し出した。

そこには、崩れたトンネルと、地面に転がる駅名標——『上信田駅』の文字が薄く読み取れた。

「この写真、どこで……」

「私の兄が撮ったんだ。彼は鉄道マニアだったが、この写真を撮ったあと……消えた」

「……!」

「その日、彼は“回送電車に乗る夢を見た”と言っていたよ。乗ってはいけない電車があると、最後まで言っていた」

私は息を飲みながら、写真を凝視した。
その朽ち果てた駅のホームには、確かに“誰か”が立っているように見えた。

——背中を向けた黒いスーツの男が、ぼんやりと写っていた。

「……戻れない電車、か」

私は確信した。あの電車は、失われた“上信田駅”へ繋がる冥界の列車なのだ。

——
その夜、再び悪夢を見た。

しかし今回は夢の中で、私は意識を保っていた。
列車の中、私は席に座る自分を見ていた。

周囲には、白黒の人影たち。誰一人としてこちらを見ていない。
ただ、ひたすら目的地へ向かっているかのように静まり返っていた。

その時、車掌服を着た男が現れた。
顔は黒い影で覆われ、目だけが光っていた。

「ご乗車ありがとうございます。“上信田駅”まで、あと3駅です」

私は叫ぼうとしたが、声が出なかった。

車掌はこちらに顔を向け、こう囁いた。

「戻りたいのなら、“交換の契約”をしなさい」

「……交換?」

「誰か一人、代わりに乗せる。そうすれば、あなたは戻れる」

恐怖が全身を支配した。
他人を犠牲にすれば、私は現世に戻れるというのか?

「そんなの……できない……!」

しかし、その瞬間、車掌の目が光を増した。

「ならば、あなたもこちら側だ」

——気がつくと、私はベッドの上で目を覚ました。
朝日が差し込む部屋、外の鳥の声。

だが、左手には妙な痕が残っていた。
まるで誰かと“契約”を交わしたかのような、黒い痣のような印だった。

スマホを手に取ると、LINEに見知らぬ番号からメッセージが届いていた。

「次は、誰にする?」

私はスマホを手放し、叫びそうになった。
だが、同時にもう一つの思いが浮かんだ。

——これが唯一の方法なら、誰かを“選ぶ”しかないのか。

その瞬間、着信が鳴った。相手は、かつて私を裏切った元恋人・直樹だった。

「久しぶり。元気か?」

その声を聞いたとき、私は無意識に笑っていた。

「うん。ちょっと話したいことがあるんだ……今度、夜に新宿駅で会えない?」

——
私の後ろには、あの黒いスーツの男が立っていた。
再び、“交換の時間”が近づいていた。

この地下鉄の悪夢は、今も静かに、誰かを乗せて走り続けている——。

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