悪霊の憑依

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悪霊の憑依

悪霊の憑依:封じられた山寺の闇

長野県の奥深い山間に、「黒松寺(こくしょうじ)」という古びた寺があった。江戸時代から続くこの寺は、かつて村人たちの信仰を集めていたが、明治の廃仏毀釈の際に廃寺となり、今では崩れかけた本堂が木々の中にひっそりと佇んでいるだけだった。

東京の大学で民俗学を学ぶ大学生・高橋直樹(たかはし なおき)は、卒業論文のために「日本に残る霊的遺構と信仰の変遷」について調査しており、黒松寺に興味を持って訪れることになった。

「おい直樹、あんなところ行って本当に大丈夫かよ?あそこ、地元じゃ“憑き寺”って呼ばれてるらしいぜ」
友人の慎吾が不安そうに言った。
「ただの言い伝えだろ。論文に使える資料が手に入るかもしれない。行ってみる価値はあるさ」
直樹は笑って答えた。だが、彼はまだ知らなかった。この旅が“戻れない一歩”になることを。

黒松寺は思った以上に荒れていた。屋根は半分崩れ、草木が本堂の床を覆っている。彼は本堂に入り、朽ちた仏像や祭壇を調べていたが、ふと、奥の障子の向こうからかすかな声が聞こえた。

「……たすけて……」
直樹は思わず振り返ったが、誰もいない。慎重に障子を開けると、そこには古い掛け軸があり、中心には般若の面が祀られていた。奇妙なことに、面の周囲には何重にも結界のような札が貼られていた。

「何だこれ……?」
彼が面に触れた瞬間、激しい風が吹き抜け、面が床に落ちた。次の瞬間——

「ギャアアアアッ!!!」
彼の意識は真っ白になり、その場に倒れ込んだ。

翌朝、村の古老・田島老人が寺の様子を見に行くと、倒れた直樹を見つけた。
「おい……坊主、目を覚ませ……」
だが、直樹の目には光がなかった。まるで、何か別のものが彼の中に入り込んでいたかのように。

「……これはまずい……また“あれ”が解き放たれたのか……」

直樹はその後、村の診療所に運ばれたが、彼は口を開かず、ただ壁をじっと見つめていた。そして夜になると突然暴れだし、奇怪な言葉を叫び始めた。

「ウラミ……カエセ……アイツガウバッタ……」
医師は精神的なショックによる一時的な錯乱と診断したが、村人たちは皆知っていた。これは「黒松寺の祟り」だと。

田島老人は直樹の友人・慎吾に真実を語った。
「昔、あの寺には“念師”と呼ばれる僧侶がいてな、呪詛を専門にしていたらしい。その男が死ぬ間際、怨念を面に封じてこの世に残したのだ。誰も触れるなと、代々伝えてきたのに……」

「じゃあ直樹は、その……悪霊に憑かれたってことですか?」
「そうだ。憑依された者は、やがて完全に身体を乗っ取られる。魂は闇に沈み、戻ることはない……」

慎吾は直樹を救うため、黒松寺へ再び足を運ぶ決意をする。夜、松明を持って寺に入ると、かつて面が祀られていた部屋で、直樹が待っていた。

「直樹!? よかった、無事だったのか!?」
「……シンゴ……キタ……」
しかし、その声は直樹のものではなかった。低く、濁った声が慎吾の耳に響いた。

「オマエモ……クレ……アイツヲカエセ……」
直樹の体が痙攣し、背中が反り返る。慎吾は恐怖に震えながらも、持っていた塩を床に撒き、声を張り上げた。

「直樹!お前はお前だろ!負けるな!戻ってこいよ!」
その瞬間、室内に風が巻き起こり、かつての般若面が宙に浮いた。直樹は目を見開き、絶叫した。

「うわああああああああっ!!!」

光が弾け、直樹はその場に倒れた。面は再び床に落ち、静寂が訪れた。

数時間後、直樹は目を覚ました。
「……慎吾?……ここは……」
「よかった……本当に、よかった……」

寺の奥、再び面は封じ直され、慎重に結界が張られた。

村を去る直前、田島老人が慎吾にこう告げた。
「忘れるな。この世には、触れてはいけないものがある。知識や探究心は時に命取りになる。お前たちは運が良かっただけだ……」

慎吾と直樹は、もう二度と黒松寺に近づくことはなかった。だが、その夜から、東京の直樹の部屋の隅には……小さな影が現れるようになったという。

「……カエセ……」
耳元で囁くその声が、再びあの悪霊の存在を感じさせていた。

──そして数日後。

直樹は一見すると平穏を取り戻していた。だが、夜になると必ず視線を感じ、電気が勝手に点滅し、そしてまたあのノートが……

「……アイツノウラミ……カタラレナイ……」
慎吾は再び直樹のもとを訪ねた。
「お前、本当に大丈夫か?目の下のクマ、やばいぞ」
「……毎晩、夢に出てくるんだ。面の男が。顔が……溶けてて……俺の顔を剥ごうとする……」
その晩、直樹はついに夢の中で面と対峙する。

「ナゼ サマヲ トイタ……ナゼ フミコエタ……」
「お前は……何者なんだ……?」
「ワレハ……オマエ……」
目覚めた直樹の口からは、血が流れていた。枕元には……再び、あの面が転がっていた。

完全に終わったはずの悪霊の憑依。それはまだ続いていた。
いや、これからが“本当の始まり”だったのかもしれない。

悪霊は一度選んだ“器”を、決して手放さない。

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