山姥の囁き

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山姥の囁き

山姥の囁き

深い山奥にある小さな村、鬼灯村(ほおずきむら)。そこには決して近づいてはならないという"山姥の森"があった。村人たちは子供の頃から、「あの森に入ると山姥に囁かれ、二度と戻れなくなる」と言い聞かされていた。

ある日、大学生の川瀬涼(かわせ りょう)は都市伝説を調査するために鬼灯村を訪れた。彼は村の古老、田嶋(たじま)に話を聞いた。

「山姥の囁きを聞いた者は、理性を失い森の奥へと引きずり込まれる。そして……二度と戻ってこないのさ。」

「本当にそんなことが?」涼は興味津々だった。「ただの言い伝えでしょう?」

田嶋は険しい表情で涼を見つめ、低い声で言った。「信じぬ者ほど、危険な目に遭う……。」

涼はその晩、村の宿に泊まりながら地図を広げ、翌朝には山姥の森へ足を踏み入れることを決めた。

――翌朝、霧が立ち込める森の入り口に立った涼。鳥のさえずりもなく、不気味な静寂が支配していた。彼はカメラを構え、森の奥へと進んだ。

数時間歩いた頃、涼は微かな囁きを聞いた。

「……こっちへ……おいで……」

彼は驚き、辺りを見回したが誰もいない。だが、確かに聞こえたのだ。

「誰かいますか?」

返事はなかった。ただ、囁き声だけが森の奥から流れてくる。

「……こっちへ……もっと奥へ……」

その声は甘く、優しく、どこか懐かしいものだった。涼の理性は徐々に霧のように消え去り、彼はふらふらと声のする方へと進んでいった。

ふと、背後で誰かが叫ぶ声がした。

「戻れ!聞くな!!」

驚いて振り返ると、そこには田嶋が息を切らせながら立っていた。

「バカ者!お前も囁きを聞いたのか!」

涼は混乱しながらも、今までの自分の行動を思い返した。そして気がついた。自分の足元が、まるで見えない何かに絡みつかれているように重いことに。

「見えない手が……俺を……」

「奴の囁きを聞くと、心を奪われ、気づいた時には森の奥深くで命を落とすんだ!」田嶋は叫びながら、涼の腕を引っ張った。

涼は抗おうとしたが、田嶋の必死の力に引っ張られ、森の入り口まで連れ戻された。

気がつくと、涼は村の宿の布団の上にいた。外はすでに夜。田嶋が隣に座っていた。

「……お前は運がよかった。もう二度と、あの森には近づくな。」

涼は青ざめながら頷いた。耳にはまだ、あの甘い囁きがこびりついていた。

しかし、涼の好奇心はまだ完全に消えてはいなかった。彼は夜遅く、こっそりと宿を抜け出し、再び森へと向かった。

霧の中、彼は再び囁きを聞いた。

「……おいで……待っている……」

涼の心は激しく揺れた。しかし今度は意識がはっきりしている。彼はポケットからボイスレコーダーを取り出し、録音を開始した。

「あなたは誰ですか?」

「……私を……忘れたの……?」

その声は、母の声に似ていた。

「母さん……?」

涼の母は彼が幼い頃に亡くなっていた。しかし、この声は確かに母に似ていた。

「……帰ってきて……一緒に……」

涼の意識がまた朦朧とし始めた。足が勝手に前へと進んでいく。

「だめだ……行ってはいけない……!」

必死に理性を保とうとするが、すでに手遅れだった。目の前にぼんやりとした影が現れる。それは、白い着物を纏い、長い髪を垂らした女の姿だった。

「……おいで……」

その顔は、朽ち果てたように歪み、笑っていた。

「うわぁぁぁ!!」

涼は叫びながら後ずさった。しかし、足元の地面が崩れ、彼はそのまま奈落のような暗闇へと落ちていった。

――

翌朝、村人たちは森の入り口で涼のボイスレコーダーを見つけた。再生すると、そこには恐ろしい囁きが録音されていた。

「……こっちへ……もう逃がさない……」

涼の姿は、二度と発見されることはなかった。

(完)

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