海坊主の出現
海坊主の出現
暑い夏の夜、日本の南方にある小さな海村「神海村」では、毎年「海坊主神会」が開催される。それは海の魔物「海坊主」を鎮めるための儀式だった。
「こんな話、信じられるかよ。」
漁師見習いのタクヤは、大人たちの怯える様子を見て笑った。彼は若く、血気盛んで、何よりも好奇心が強かった。
「何をするかは自由だが、海には譲れないルールがある。海坊主を安易に怖がらないことだ。」
神海村の野井老漁師は真顔で言い、海を持つ水神の舞いを調え始めた。
しかしタクヤは夜になると、大宅の気になる町の美人サヨと親しげに話し、カヌの海の最深部へ船を出すことにした。
「何もないさ。海坊主だって?大人たちは子供を怖がらせるために編み出した例のない妖怪だよ。」
サヨは不安そうにタクヤを見つめたが、彼の自信に満ちた表情に押され、結局ついて行くことになった。
二人は村の沖に向かって船を漕いでいった。月明かりが波に反射し、夜の海は幻想的な美しさを湛えていた。
「すごいね、こんなに静かな海は初めて見る。」
サヨが感嘆するように言った。しかし、その静けさこそが不吉だった。
ふと、海面が不気味に波打ち始めた。
「あれ…?風もないのに…」
サヨの声が不安げに震えた。タクヤも異変に気づいた。海の表面がまるで生き物のようにざわつき、何かが水面下で蠢いているようだった。
突然、「ザブン!」という音が響いた。
船の周りの水が黒く濁り、奇妙な泡がぶくぶくと湧き出していた。
「おい…、何だこれ…?」
タクヤがつぶやくと、船の下から巨大な影が現れた。月明かりの下、その影は次第に形を成していく。
「ああ…!?」
サヨの悲鳴が夜の海に響き渡った。
それは巨大な黒い頭だった。まるで禿げた僧侶のような光沢のある丸い頭。真っ黒で、目も口もなく、ただ巨大な影が海の上にそびえ立っていた。
「海坊主…!」
タクヤは息を呑んだ。村の伝承で聞いた通りの姿だった。
海坊主はゆっくりと顔を上げ、つるりとした頭部から水が滴り落ちた。そして、突然、巨大な手が水面から現れ、船を掴もうとした。
「逃げろ!!」
タクヤは必死にオールを漕いだが、海坊主が動くたびに海は大きく波打ち、船は翻弄された。
サヨは恐怖で震え、泣きながらタクヤにしがみついた。
「助けて…!お願い…!」
その時、海の向こうから一隻の船が近づいてきた。それは村の漁師たちだった。
「坊主に目を合わせるな!」
野井老漁師の声が響いた。彼らは手に塩と護符を持ち、海へ投げ始めた。
「これで少しは時間を稼げる!急げ!」
タクヤは必死に漕ぎ、何とか漁師たちの船に辿り着いた。サヨは放心したまま、ただ震えていた。
海坊主はしばらくの間、黒い影のまま海に佇んでいたが、護符の力に押されたのか、ゆっくりと海の中へ沈んでいった。
翌朝、村に戻ったタクヤとサヨは村長のもとに呼ばれた。
「お前たちは、禁じられた領域に踏み入った。」
村長の厳しい声が響く。
「海坊主は怒りを鎮めたが、次に現れた時は、もう助からんかもしれん。覚えておけ。」
タクヤは深く頭を下げた。恐れ知らずだった彼も、昨夜の出来事で心の底から震えていた。
サヨはあれ以来、海を見ることができなくなったという。
それからしばらくの間、村では再び「海坊主神会」が厳粛に行われるようになった。
海坊主は今もなお、深い海の底で人間の過ちを見つめ続けているのかもしれない。

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