孤独な部屋
孤独な部屋:誰もいないはずの声
その部屋には、誰も住んでいないはずだった——。東京郊外の古びたアパート、築六十年を超える木造建築の一角に、その「孤独な部屋」は存在した。住人が変わっても、決まって長くは続かず、やがて誰も住もうとはしなくなった。
「八千代荘三〇三号室……? あそこ、空いてるんですか?」
大学進学を機に一人暮らしを始めた佐藤大輝は、不動産会社で紹介されたその部屋の名前を聞いた瞬間、どこか胸騒ぎを覚えた。しかし、家賃は破格の安さ。彼の財布事情には魅力的すぎる条件だった。
「……うん、まあ、大丈夫だろう。どうせ噂話だ。」
鍵を受け取り、三〇三号室の扉を開けた瞬間、大輝は言いようのない寒気に襲われた。湿った空気、剥がれかけた壁紙、そして部屋の隅に立つ古びた姿見鏡——。
「……なんだ、鏡か。これ、処分できないのかな。」
不動産会社に連絡を取るも、「あの鏡だけは動かせない契約になっている」と告げられる。
その晩、大輝はベッドに横たわりながらも、眠れない夜を過ごしていた。
——カタ、カタ……。
何かが動く音が聞こえる。目を凝らすと、鏡の中にわずかに揺れる人影。
「……誰だ……?」
彼はゆっくりと起き上がり、恐る恐る鏡に近づく。鏡の中に、自分以外の何かが映っているように見えた。だが、振り返っても誰もいない。再び鏡を見ると、そこには長い髪の女が立っていた。顔はぼやけて判別できず、ただ、こちらを見つめている。
「ふざけるな……っ!」
大輝は思わず鏡に手をかけた——その瞬間、
「……ここに、いるよ……。」
耳元で囁くような女の声が聞こえた。背筋を凍らせ、彼はその場に崩れ落ちた。
翌朝、目を覚ますと鏡は何事もなかったかのように静かに立っていた。
「……夢、だったのか……。」
しかし、鏡の表面には無数の手形が浮かんでいた。しかも、その手形は内側から付けられているように見えた。
数日後、大輝は大学の友人である山本翔太に相談した。
「その部屋……やばいって噂、聞いたことある。昔、あそこで自殺した女性がいたって。」
翔太は真剣な表情で話し始めた。
「しかもさ、鏡の中から声が聞こえたって話、前の住人も言ってたらしい……。」
心当たりのある大輝は、背筋が凍る思いだった。
その夜、彼は再び鏡の前に立った。
「……お前は……誰だ?」
沈黙——しかし、次の瞬間、鏡の中の女の目が見開かれ、
「私の……居場所を……返して……」
と、血のような涙を流し始めた。鏡の表面にヒビが入り、大輝は叫び声を上げて部屋を飛び出した。
逃げるようにして実家へ戻った彼は、数日後、ニュースで「八千代荘三〇三号室で火災、全焼」と報じられたのを見る。
火元は、あの鏡。
しかし、燃え落ちたアパートの廃墟の中で、消防士が発見したものは——
焼け焦げた鏡の破片と、そこに浮かび上がる「……まだ、ここにいる……」という文字だった。
火災から一週間後、大輝は悪夢にうなされるようになった。夢の中で、焼け跡の中に立つ女性が彼を見つめている。
「あなたが……私の代わり……。」
目覚めた彼の手には、鏡の破片のような傷があった。実際には触れていないはずの鏡の痕跡が、現実に影響していた。
恐怖に耐えきれず、大輝は鏡について調べ始めた。近所の古老から、恐ろしい話を聞かされる。
「昔、その部屋に住んでいた女学生が、恋人に裏切られて首を吊ったんだ。その時、最後に見ていたのが……あの鏡だったそうだよ。」
「彼女の魂は鏡に囚われて、今でも孤独に誰かを待っている——。」
大輝は愕然とした。
「じゃあ、俺は……その代わりにされたのか……?」
夜になると、彼の部屋の鏡にも異変が起き始めた。別の場所の鏡でも、あの女が映るのだ。まるで、どこまでも追ってくるかのように。
ついに耐えきれず、大輝は寺へ赴き、住職に相談する。
「魂は執念深いものです。あなたを“次の住人”と見做したのでしょう。鏡を通じて、どこまでも繋がっているのです。」
除霊を依頼したものの、鏡を媒介にした怨霊は容易には消えなかった。その夜、大輝の姿が自宅から消えた。室内には砕けた鏡の破片と、血で書かれた「孤独は終わらない」の文字が残されていた——。
孤独な部屋は消えても、鏡はどこにでも存在する。もし、あなたの鏡の中に知らない誰かが立っていたら、それは……彼の代わりかもしれない。

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