嵐の夜
嵐の夜の訪問者
古い山奥の村には、昔から語り継がれる奇妙な噂があった。「嵐の夜、決して戸を開けてはならない。」
村の外れに住む青年、隆一(りゅういち)は、その言い伝えをただの迷信だと思っていた。しかし、ある嵐の夜、彼はその意味を知ることとなる。
その夜、村は激しい雷雨に見舞われていた。風が窓を激しく叩き、木々が悲鳴を上げるように揺れている。隆一は囲炉裏の前に座り、湯気の立つお茶をすすっていた。
——コンコン。
突然、玄関の戸を叩く音がした。
「こんな夜に……誰だ?」
不審に思いながらも、隆一は立ち上がった。雨音に混じって、かすかに声が聞こえる。
「助けてください……。」
か細い女の声だった。隆一は戸口に近づくと、再び戸を叩く音が響いた。
——コンコン。
隆一は迷った。村の言い伝えが頭をよぎる。しかし、嵐の中、一人の女性を見捨てるわけにはいかない。
意を決して、彼はゆっくりと戸を開けた。
そこには、白い着物を着た女が立っていた。びしょ濡れの長い髪が顔に張り付き、その目はどこか虚ろだった。
「……入ってください。」
隆一は女を家の中へ招き入れた。女は無言で頷き、足を引きずるようにして入ってきた。彼は急いで布を渡し、囲炉裏の前へ案内した。
「どうしてこんな嵐の夜に?」
女は震える声で答えた。
「道に迷ってしまって……気がついたら、この家の前に……。」
隆一は頷いた。しかし、どこか腑に落ちなかった。このあたりの山道は村人なら迷うはずがない。ましてや、こんな夜に……。
「家はどちらですか?」
女は少し考え込んでから、ぽつりと答えた。
「……覚えていません。」
その言葉に、隆一の背筋が凍った。
囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てる。部屋の中の空気が妙に重い。女は静かに火を見つめたまま、微動だにしない。
ふと、隆一の目に奇妙なものが映った。女の足元……濡れたはずの床には、水滴が落ちていなかった。
——ぞくり。
何かがおかしい。
「……温まったら、もう休まれますか?」
女はゆっくりと隆一の方を見た。その目がぎょろりと動き、にたりと微笑む。
「……ええ。でも、あなたは休めませんよ?」
その瞬間、部屋の灯りが一斉に消えた。
隆一の心臓が跳ね上がる。暗闇の中、女の笑い声が響いた。
「……見つけた。」
恐怖に駆られた隆一は、手探りで囲炉裏の火を探った。しかし、女の冷たい手が彼の腕を掴んだ。
「……逃がさない。」
隆一は悲鳴を上げ、もがいた。だが、女の力は異常なほど強く、彼の体を押さえつけた。
「お前も……一緒に……。」
突然、激しい雷鳴が鳴り響いた。
その瞬間、女の姿がふっと消えた。
隆一は荒い息をつきながら、震える手で灯りをつけた。家の中には、誰もいなかった。
嵐は静かに遠ざかり、夜明けが近づいていた。
しかし、戸口には、濡れた足跡が残されていた——。
その日以来、隆一は夜になると、誰かに見られているような気がしてならなかった。
ある晩、再び雨が降り始めた。
——コンコン。
隆一は息を呑んだ。再び、戸を叩く音が響く。
「……開けて……ください……。」
今度ははっきりと聞こえる。あの女の声だ。
隆一は震えながら戸を押さえつけた。
「開けない……もう開けない……!」
だが、戸の向こうから、にたりと笑う声が聞こえた。
「……もう、開いていますよ。」
背後から、冷たい息がかかった。

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